レコンキスタ

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レコンキスタスペイン語: Reconquista、ポルトガル語: Reconquista、「再征服」「国土回復運動」の意)は、8世紀初頭から15世紀末にかけて、イベリア半島においてキリスト教徒が行ったイスラム教徒に対する軍事的・政治的・文化的再征服運動である。

概要[編集]

レコンキスタは、711年ウマイヤ朝によるイベリア半島征服に端を発し、718年頃のアストゥリアス王国の建国(またはコバドンガの戦い)から、1492年1月2日グラナダ陥落まで、約780年にわたって続いた。この運動は単一の統一された計画ではなく、複数のキリスト教徒国家がそれぞれ独立して、あるいは連携しながら、イスラム教徒の支配地を徐々に奪還していった過程である。

レコンキスタは、単なる領土回復運動に留まらず、キリスト教文化の復興とイスラム文化との共存、そしてスペインポルトガルという2つの近代国家の形成に決定的な影響を与えた。この過程で、カトリック教会は大きな役割を果たし、十字軍の概念とも結びつきながら、その精神的支柱となった。

歴史[編集]

イスラム教徒によるイベリア半島征服[編集]

711年ウマイヤ朝将軍であったターリク・イブン・ズィヤード率いるイスラム教徒の軍隊が、ジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に侵攻した。当時イベリア半島を支配していた西ゴート王国は内紛状態にあり、イスラム軍はグアダレーテの戦いで西ゴート軍を破り、瞬く間に半島の大半を征服した。わずか数年のうちに、イスラム教徒はピレネー山脈に至る広大な領域を支配下に置いた。

キリスト教徒の抵抗と初期国家の形成[編集]

イスラム教徒の征服後も、ピレネー山脈の山岳地帯や北部のカンタブリア山脈には、わずかながらキリスト教徒の抵抗勢力が残った。

カリフ制とタイファ諸国[編集]

929年、後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世は、コルドバを首都とする後ウマイヤ朝カリフ制に昇格させ、その支配下でアル=アンダルスは最盛期を迎えた。しかし、1031年に後ウマイヤ朝が滅亡すると、アル=アンダルスは多数の小王国(タイファ諸国)に分裂し、互いに争うようになった。このタイファ諸国の分裂は、キリスト教徒諸国にとって好機となった。彼らはタイファ諸国に貢納(パーリア)を要求したり、時には同盟を結んだりしながら、巧みに勢力を拡大していった。

大規模な南下[編集]

タイファ諸国の分裂に乗じて、キリスト教徒諸国は本格的な南下を開始する。

ムラービト朝とムワッヒド朝の到来[編集]

キリスト教徒諸国の攻勢に直面したタイファ諸国は、北アフリカムラービト朝に救援を求めた。ムラービト朝はイベリア半島に渡り、1086年サグラハスの戦いでカスティーリャ軍を破り、タイファ諸国を再統一した。しかし、ムラービト朝の支配も長くは続かず、12世紀には再び北アフリカから興ったムワッヒド朝がイベリア半島に進出した。ムワッヒド朝は一時的にキリスト教徒の勢いを止めるが、1212年ラス・ナバス・デ・トロサの戦いで、カスティーリャ、アラゴン、ナバラ連合軍に大敗し、その支配は急速に衰退した。

後期のレコンキスタ[編集]

ラス・ナバス・デ・トロサの戦い以降、イスラム勢力は決定的に劣勢となり、13世紀中葉には、イベリア半島に残るイスラム教徒の国家は、グラナダを拠点とするナスル朝グラナダ王国のみとなった。

  • グラナダ王国の存続: グラナダ王国は、地形的な要害と、カスティーリャ王国内の政治的混乱、そしてキリスト教徒諸国間の対立に助けられ、約250年間にわたって存続した。また、ナスル朝のグラナダは、イスラム文化キリスト教文化が融合した独自の文化を花開かせた。

レコンキスタの完了[編集]

15世紀後半、カスティーリャ女王イサベル1世アラゴン国王フェルナンド2世1469年に結婚し、1479年スペイン王国カスティーリャ=アラゴン連合王国)が成立した。この両王は「カトリック両王」と呼ばれ、統一された強力な権力のもと、グラナダ王国への最後の攻撃を開始した。

1492年1月2日グラナダ陥落。ナスル朝最後の王であるムハンマド12世カトリック両王に降伏し、約780年に及ぶレコンキスタはここに完了した。

影響[編集]

スペインとポルトガルの成立[編集]

レコンキスタは、今日のスペインポルトガル国民国家形成の基盤となった。イベリア半島におけるイスラム教徒の排除は、キリスト教徒としてのアイデンティティを強固にし、国家統合の精神的支柱となった。

宗教的統一と異教徒追放[編集]

レコンキスタの完了は、宗教的寛容の時代の終わりを意味した。カトリック両王は、グラナダ陥落と同じ1492年に、イベリア半島のユダヤ人に対してユダヤ人追放令を発し、ユダヤ教徒改宗か追放かを迫った。また、イスラム教徒に対しても、一旦は信仰の自由を保障したものの、後に改宗を強制し、1609年にはモリスコ追放が行われた。

文化への影響[編集]

レコンキスタは軍事的な側面が強調されるが、実際にはキリスト教徒とイスラム教徒の間で、長期間にわたる文化的な交流も行われた。イスラム教徒の高度な科学医学哲学数学天文学地理学などは、キリスト教徒を通じてヨーロッパに伝えられ、ルネサンスに大きな影響を与えた。ムデハル様式と呼ばれる建築様式は、イスラム教の芸術とキリスト教の建築が融合した例である。

大航海時代への影響[編集]

レコンキスタが完了した1492年は、クリストファー・コロンブスアメリカ大陸に到達した年でもある。長期間にわたる国土回復運動で培われた軍事的・組織的経験、そしてイスラム教徒からの交易知識や航海術の吸収は、その後の大航海時代におけるスペインとポルトガルの海外進出に大きく貢献した。

主要な戦いと出来事[編集]

豆知識[編集]

  • レコンキスタという言葉は、現代においてその歴史的プロセスを一つの統一された概念として捉えるために用いられるようになった比較的新しい用語である。当時の人々は、必ずしもこの語で自分たちの行動を定義していたわけではない。
  • レコンキスタの間、キリスト教徒とイスラム教徒は常に戦争状態にあったわけではなく、交易や文化交流も盛んに行われた。また、キリスト教徒の支配下においても、イスラム教徒(ムデハル)やユダヤ教徒がそれぞれの信仰と文化を保持して暮らす地域も存在した。
  • エル・シッド」として知られるロドリーゴ・ディアス・デ・ビバールは、キリスト教徒でありながらイスラム教徒の領主のために戦うなど、当時の複雑な状況を象徴する人物である。

関連項目[編集]

参考書籍[編集]