メナヘム・ベギン
メナヘム・ベギン(猶:מנחם בגין)は、イスラエルの政治家。同国の7代目首相。
生涯[編集]
東欧時代[編集]
1913年8月16日、ロシア帝国領のブレスト・リトフスクで生まれる。ワルシャワ大学で法律を学んだ後、ポーランドのシオニズム組織べタルに参加。巧みな弁舌により頭角を表し、若くして有力な指導者の一人となった。1939年、ナチス・ドイツがポーランド侵攻してくるとリトアニアに亡命する。一時ソ連当局にスパイ容疑で強制収容されたものの、独ソ戦開始後に解放され、イギリスの委任統治領だったパレスチナに逃れた。なお、ソ連領内に残ったベギンの親族はホロコーストにより落命した。
パレスチナ時代[編集]
二次大戦後、ベギンは過激派シオニスト武装組織イルグンのリーダーに就任。バルフォア宣言を根拠としてイギリスのパレスチナ占領政策を批判し、ゲリラ戦術を用いた独立闘争を開始した。イルグンは1946年7月22日にキング・デイヴィット・ホテル爆破事件を起こし、翌年7月には弾圧への報復としてイギリス陸軍軍曹2名を木に吊るし処刑。激怒したMI5はベギンに10000ポンドの懸賞金をかけて指名手配したが、ラビに身を扮することでなんとか逃げ切った。
イスラエル建国後[編集]
1948年にイスラエルが建国されると、ベギンはイルグンの元メンバーと共に極右政党・へルートを結党する。へルートは最初の選挙で14議席を獲得したものの、初代首相ベン=グリオン率いる中道右派の与党マパイ(→労働党)には及ばなかった。その後へルートは保守系少数与党との合併を繰り返し、1973年にリクードを結成。第四次中東戦争での苦戦や汚職による労働党政権の権威失墜を機に支持を広げ、1977年5月の総選挙で遂に与党の座を奪取した。
首相就任[編集]
リクード政権の首相に就任したベギンはそれまでの過激思想を抑え、現実路線に転換した。1978年にはエジプトのサダト大統領と平和条約を結び、シナイ半島から軍を引き上げた。この功によりベギンとサダトはノーベル平和賞を受賞している。一方、イラク爆撃やレバノンへの軍事侵攻(レバノン戦争)で国際社会の批判を浴び、妻の死による心労も相まって1983年10月10日にベギンは職を辞し、同じくリクードのイツハク・シャミルに政権を譲った。その後は妻を弔いながら静かに暮らし、1992年3月9日に死去した。享年78。
関連項目[編集]