ダヴィド・ベン=グリオン
タヴィド・ベン=グリオン(猶:דוד בן-גוריון)は、イスラエルの政治家。同国の初代及び3代目首相を務め、建国の父とされる。
生涯[編集]
前半生[編集]
1886年10月16日、ロシア帝国領のポーランドでユダヤ人の家に生まれる。当時のロシアではポグロムと呼ばれる激しいユダヤ人への迫害が行われており、衝撃を受けたベン=グリオンはシオニズムの思想に染まっていったとされる。ワルシャワ大学を卒業後、1906年9月7日にパレスチナに移住し、ユダヤ人コミニュティ建設のための活動を開始。一時期過激な政治活動を理由にオスマン帝国政府によって逮捕・追放されたものの、第一次世界大戦のオスマン帝国崩壊後に帰還した。なお、追放期間中の1915年にニューヨークで同じくユダヤ系ロシア人の女性パウラ・ムンワイスと結婚している。その後もイギリス領パレスチナで活動を続け、1930年には急進派シオニスト政党「マパイ党」を結成し、その指導者に就任した。1930年代後半からはホロコーストを逃れてドイツから移住してきたユダヤ難民の受け入れに奔走したが、人口の急増によりイギリス当局や現地のアラブ人との軋轢が深まった。
イスラエル建国[編集]
第二次世界大戦後、ナチスのユダヤ人迫害の全貌が明らかになると、欧米ではシオニズム運動への同情が広まり、1947年11月29日、国際連合総会にてパレスチナをユダヤ人国家とアラブ人地域に分割する決議が採択された。パレスチナのユダヤ人達はこの決議に基づき、1948年5月14日にイスラエルの建国を宣言。ベン=グリオンは初代首相並びに国防相に就任した。しかし、エジプトやシリアなどアラブ諸国はイスラエルを認めず、独立から4日後に第一次中東戦争が始まった。イスラエルは一時亡国の危機に立たされらものの、欧米の支援により形勢を逆転させ、最終的に勝利したうえに領土を広げた。1954年1月26日、穏健派のモシェ・シャレットに政権を譲り一旦退陣したが、翌年11月3日に再登板し、1963年6月26日までの約8年半に渡って首相の座にあった。第二次内閣では英仏と組んでエジプト相手に第二次中東戦争を起こし、戦闘では優位に立ったものの国際社会からの猛批判を受け、占領地からの撤退を余儀なくされた。退任後もクネセト議員として政界に強い影響を持っていたが、1970年に完全引退。ネゲヴ砂漠のキブツに隠棲し、1973年12月1日に死去した。享年87。
政治姿勢[編集]
レバノン首相の暗殺を命じるなど強硬派として知られていたが、晩年は穏健化したとされる。
関連項目[編集]