アルバニア人民共和国
アルバニア人民共和国(アルバニアじんみんきょうわこく、アルバニア語: Republika Popullore e Shqipërisë)は、第二次世界大戦後の1946年から1992年までバルカン半島に存在した社会主義国家である。正式名称は、1946年から1976年まではアルバニア人民共和国、1976年からはアルバニア社会主義人民共和国(アルバニア社会主義じんみんきょうわこく、アルバニア語: Republika Popullore Socialiste e Shqipërisë)であった。
エンヴェル・ホッジャ率いるアルバニア労働党による一党独裁制が敷かれ、鎖国政策に近い極端な孤立主義をとったことで知られる。
歴史[編集]
建国と初期[編集]
1944年11月、アルバニアは第二次世界大戦における枢軸国の占領から解放された。パルチザンを率いたエンヴェル・ホッジャのアルバニア共産党(後にアルバニア労働党と改称)が実権を掌握し、1946年1月11日、王政の廃止とアルバニア人民共和国の成立を宣言した。これにより、アルバニアはソビエト連邦を筆頭とする東側諸国の一員となった。
初期のアルバニア人民共和国は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国との関係が深く、経済的・政治的に大きな影響を受けた。しかし、ヨシップ・ブロズ・チトーとスターリンの対立が表面化すると、ホッジャはスターリンを支持し、1948年にはユーゴスラビアとの関係を断絶した。これにより、アルバニアはソビエト連邦との関係を強化し、その支援を受けて国家建設を進めた。
ソ連との決別と中国との蜜月[編集]
スターリンの死後、ソビエト連邦ではニキータ・フルシチョフによる非スターリン化が進められた。しかし、ホッジャはこれを修正主義とみなし、1961年のソ連共産党第22回大会を機にソ連との関係を断絶した。
ソ連との決別後、アルバニアは中華人民共和国の毛沢東思想に共鳴し、中ソ対立の中で中国との緊密な関係を築いた。中国からの経済的・軍事的援助を受け、アルバニアは「ヨーロッパにおける中国の灯台」と称されるほどの社会主義の模範国家を目指した。この時期、アルバニアでは文化大革命に類似した「イデオロギー・文化革命」が実施され、宗教活動の禁止や知識人の粛清などが行われた。
中国との決別と完全な孤立[編集]
毛沢東の死後、中華人民共和国で鄧小平による改革開放路線が採られると、ホッジャはこれを再び修正主義と批判し、1978年には中国との関係も断絶した。これにより、アルバニアは国際的に完全に孤立した状態となった。
この孤立主義は、国内経済の停滞や国民生活の困窮を招いた。ホッジャ政権は、潜在的な外部からの侵略に備えるため、全国に70万個以上のトーチカを建設するなど、極端な軍事化を進めた。
ホッジャの死と体制転換[編集]
1985年、長年にわたってアルバニアを指導してきたエンヴェル・ホッジャが死去した。後継者のラミス・アリアは、徐々に経済改革や外交関係の改善に着手した。1989年の東欧革命の影響を受け、アルバニアでも民主化を求める声が高まった。
1990年には複数政党制が導入され、1991年には自由選挙が実施された。同年、国名をアルバニア社会主義人民共和国からアルバニア共和国に改称し、1992年には共産主義体制が完全に崩壊した。
政治[編集]
アルバニア人民共和国は、アルバニア労働党による一党独裁制が敷かれていた。国家元首は人民議会幹部会議長であったが、実権はアルバニア労働党第一書記が握っていた。エンヴェル・ホッジャは、1944年から1985年に死去するまで、一貫してアルバニア労働党第一書記を務め、国家の最高指導者として君臨した。
国家機関は人民議会が最高機関とされ、形式的には立法権を有していたが、実際にはアルバニア労働党の方針がすべてを決定していた。司法機関もアルバニア労働党の指導下にあり、独立性は保障されていなかった。
経済[編集]
アルバニア人民共和国の経済は、中央計画経済体制が採用されていた。農業は集団化され、工業化が推進された。初期にはソビエト連邦、後には中華人民共和国からの援助に大きく依存していた。
しかし、極端な鎖国政策と非効率な計画経済により、経済は常に停滞し、国民生活は貧しかった。特に、中国との関係断絶後は、自給自足を目指す極端な方針が採られ、経済状況はさらに悪化した。主要な輸出品はクロムなどの鉱物資源であった。
社会と文化[編集]
アルバニア人民共和国では、無神論が国教とされ、宗教活動は厳しく制限された。モスクや教会は閉鎖され、一部は博物館や倉庫に転用された。
教育は、マルクス・レーニン主義に基づいたイデオロギー教育が徹底され、国民の識字率は向上したものの、思想の自由は大きく制限された。メディアも厳しく検閲され、プロパガンダの道具として利用された。
文化面では、社会主義リアリズムが推奨され、伝統的なアルバニア文化と社会主義思想を融合させた芸術が奨励された。しかし、海外の文化との交流はほとんどなく、独自性が強調された。
軍事[編集]
アルバニア人民共和国の軍隊は、アルバニア人民軍(Forcat e Armatosura Popullore të Shqipërisë)と呼ばれた。エンヴェル・ホッジャの「要塞国家」構想に基づき、国民皆兵制が敷かれ、全ての成人男性にはトーチカの建設を含む軍事訓練が義務付けられた。
国外からの侵略に備え、国土の至る所に数えきれないほどのトーチカが建設され、アルバニアの象徴的な光景となった。ソ連や中国からの軍事援助を受けていたが、関係断絶後は自力での兵器開発・生産を目指した。
豆知識[編集]
- アルバニア人民共和国は、第二次世界大戦後、世界で唯一、憲法で無神論国家であることを明記した国でした。
- ホッジャ政権時代に建設されたトーチカの数は、約70万個から75万個とも言われ、その多くは現在もアルバニア国内に残されています。
- アルバニアは、1968年にワルシャワ条約機構を脱退しました。これはチェコスロバキア介入に抗議するものでした。
- 経済的な困窮にもかかわらず、アルバニア人民共和国は自力で鉄道網を整備しました。
関連項目[編集]
参考文献[編集]
- クリストファー・ウッドハウス『近代アルバニア史』彩流社、2011年。
- 柴宜弘『図説 バルカンの歴史』河出書房新社、2015年。
- ジョルジュ・カステラン『バルカン 歴史と現在』新評論、1993年。