琉球王国
琉球王国(りゅうきゅうおうこく、旧字体: 琉球王國、琉球語: 琉球國またはるーちゅーくく、中国語: 琉球國)は、15世紀初頭から19世紀後半にかけて、現在の沖縄県と鹿児島県奄美群島を版図とした王国である。東アジアと東南アジアを結ぶ中継貿易の拠点として栄え、独自の文化を発展させた。
歴史[編集]
成立[編集]
琉球諸島には、古くから貝塚時代と呼ばれる時代から人々が居住していた。12世紀頃からは各地に按司(あじ)と呼ばれる支配者が台頭し、グスク時代と呼ばれる群雄割拠の時代を迎える。その中でも、沖縄本島では北山、中山、南山の三つの勢力が台頭し、「三山時代」を形成した。
14世紀に入ると、中山の察度は明との冊封関係を確立し、中継貿易の基盤を築いた。そして、1429年、中山の尚巴志が三山を統一し、琉球王国を建国した。この建国により、琉球は統一された国家としての道を歩み始める。
黄金時代[編集]
琉球王国は、明や清との冊封体制の下で、中国、日本、朝鮮、東南アジア諸国との中継貿易により繁栄を極めた。特に尚真王の時代(1477年 - 1526年)は、政治的安定と経済的繁栄を享受し、琉球王国の黄金時代と称される。この時期には、首里城の拡充や円覚寺の建立など、多くの文化施設が整備された。また、この時代に士族制度が確立され、王国の統治体制が確立された。
中継貿易を通じて、琉球には様々な物資や文化が流入し、独自の文化が形成された。例えば、中国の漆器技術や日本の染織技術などが取り入れられ、琉球独自の工芸品として発展した。
薩摩の侵攻と両属関係[編集]
17世紀初頭、日本の江戸幕府の成立により、日本の対外関係は変化し始めた。1609年、日本の薩摩藩が琉球王国に侵攻し、王国は薩摩の支配下に置かれることとなった。これにより、琉球王国は中国と薩摩藩の両方に服属する「両属関係」という複雑な国際関係を強いられることになった。
薩摩の支配下でも、琉球王国は形式的には独立国としての体裁を保ち、中国との冊封関係も継続された。しかし、薩摩藩への貢納や、日本への使節派遣など、実質的な支配は強まった。この時期には、砂糖の生産が奨励され、薩摩藩の重要な財源となった。
消滅と沖縄県の設置[編集]
19世紀後半になると、日本は明治維新を迎え、近代国家への道を歩み始める。1872年、日本政府は琉球王国を「琉球藩」とし、日本の領土に編入する方針を示した。この「琉球処分」は、琉球王国の独立性をめぐる国際的な問題を引き起こした。
そして1879年、日本政府は琉球藩を廃止し、沖縄県を設置した。これにより、琉球王国はその歴史に幕を閉じた。琉球王国の消滅は、琉球の人々に大きな影響を与え、その後の沖縄の歴史に深く刻まれることとなる。
政治[編集]
琉球王国は、国王を頂点とする中央集権的な体制であった。国王の下には、摂政や三司官といった高官が置かれ、政治を司った。
地方行政は、間切(まぎり)と呼ばれる行政区分によって統治された。間切には、親方(うぇーかた)と呼ばれる地方官が派遣され、年貢の徴収や治安維持を行った。
経済[編集]
琉球王国の経済は、中継貿易に大きく依存していた。中国からの生糸や陶磁器、日本からの硫黄や刀剣、東南アジアからの香辛料や染料などが取引された。王国は、これらの交易品を仲介することで莫大な利益を得た。
農業では、米や麦のほか、甘蔗(さとうきび)やサツマイモなどが栽培された。特に、サトウキビから作られる砂糖は、薩摩藩の重要な財源となり、その生産は厳しく管理された。
文化[編集]
琉球王国は、独自の文化を育んだ。中国、日本、東南アジアの影響を受けながらも、沖縄の風土に根ざした独自の発展を遂げた。
- 言語: 琉球語(沖縄語、奄美語など)が話された。
- 宗教: 琉球神道と呼ばれる独自の信仰体系があり、ニライカナイ信仰や祖霊信仰が中心であった。中国からの仏教や儒教も伝来したが、琉球独自の形で受容された。
- 芸能: 組踊や琉球舞踊、三線を用いた琉球民謡などが発展した。
- 工芸: 紅型(びんがた)や琉球漆器、焼物(やちむん)などが有名である。
豆知識[編集]
琉球王国では、進貢船と呼ばれる船が中国へ定期的に派遣され、冊封関係を維持するとともに、貿易も行われていた。進貢船には、国王からの贈り物や貿易品が積まれ、中国の皇帝へ献上された。進貢船の航海は危険を伴ったが、これにより琉球は国際的な地位を保ち、経済的繁栄を享受することができた。
関連項目[編集]
参考書籍[編集]
- 琉球文化研究会『図説 琉球の歴史』河出書房新社、2015年。
- 新城俊昭『琉球・沖縄史』東洋企画、2001年。
- 高良倉吉『琉球王国の形成と崩壊』吉川弘文館、2007年。