小田村寅二郎

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小田村 寅二郎(おだむら とらじろう、1914年3月2日 - 1999年6月4日)は、右翼活動家[1]、思想史家。元社団法人国民文化研究会(国文研)理事長、亜細亜大学教授。吉田松陰の縁戚[2]

戦前は三井甲之蓑田胸喜の指導を受け[3][4]日本学生協会精神科学研究所で活動。1943年に東条英機内閣を批判して同志とともに検挙。戦後は1956年に日本学生協会・精神科学研究所の系譜を継ぐ国民文化研究会を結成[4][5]

経歴[編集]

東京市四谷区左門町(現・東京都新宿区)生まれ。1920年学習院初等科に入学。1926年学習院中等科に入学。同年東京府立第一中学校に編入学。1931年一中卒業[6]東京商科大学の受験に失敗。また肋膜炎に罹り療養のため2年間浪人[7]。1933年第一高等学校文科丙類に入学[8]。「聖徳太子の遺著と明治天皇の御製を讃仰して、日本が東西両洋の文化を摂取し得た思想内容を研究した団体」[9]である一高昭信会に入会[8][注 1]。在学中、昭信会で研究活動にあたるとともに寄宿寮の駒場移転準備委員会の委員(3期)、同委員会の議長(2期)、第137期寄宿寮委員会委員長を務めた[11]

1936年一高卒業。東京帝国大学法学部の受験に失敗し1年間浪人。1937年東京帝国大学法学部政治学科に入学[8]。1938年3~4月に矢部貞治助教授と6回にわたり書簡を往復[12]。矢部の出題に対して答案を書かず、講義内容を批判する文章を提出したことによる[13]。1938年6月に左傾化した帝国大学新聞に対抗して、東大精神科学研究会(会長・土方成美経済学部教授)を結成し[14]、右翼学生運動を展開[5]。1938年9月に田所廣泰らと東大精神科学研究会の外郭団体として東大文化科学研究会(代表・田所廣泰)を結成、機関誌『学生生活』を発行[12][5][15]

1938年6月に光明思想普及会発行の月刊誌『いのち』編集部から執筆の依頼を受け、同誌9月号に「東大法学部に於ける講義と学生思想生活――精神科学の実人生的綜合的見地より」と題する論文を発表[11]河合栄治郎横田喜三郎宮沢俊義蠟山政道の各教授、矢部貞治助教授の自由主義思想を攻撃し[11][5]、小田村の停学処分・退学処分に発展する(小田村事件/小田村問題)。1938年11月「外部と通牒して教授の講義の内容を世間の雑誌に公表して、恩師を誹謗したこと」[16]を理由に無期停学処分[11]。停学を言い渡した田中耕太郎法学部長は小田村に蓑田胸喜の影を見ていた[16]原理日本社主幹・蓑田胸喜、帝大粛正期成同盟、東大文化科学研究会は1939年11月2日から東大法学部東洋政治学講座の講師を兼任した津田左右吉の著書を「不穏当な学説」として攻撃し、津田は同年12月4日付で解職された(津田左右吉博士糾弾運動)[17]。1940年5月に田所廣泰らと東大文化科学研究会を発展的に解消させ、日本学生協会(理事長・田所廣泰、顧問・近衛文麿など)を結成[15]、幹事・総務部長[18][注 2]。中心幹部の1人として全国的学生運動を展開[20]。1940年11月退学処分[11]

1941年2月に田所廣泰らと精神科学研究所(精研)を結成[19][21][注 3]、理事兼所員[22]。1943年2月に東条英機内閣を批判して他の精研幹部とともに東京憲兵隊に検挙[5][23]。精研の「戦争終結の準備のない東條内閣への批判」と「統制経済を計画経済に持ってゆかうとする時代風潮への批判」が「反軍、反戦運動」と見られた[24]。同年6月に精神科学研究所・日本学生協会の自発的解散、2年間思想運動・政治運動を行わないことを条件に釈放、不起訴。同年10月に精神科学研究所・日本学生協会を解散[23]。1944年磯村産業掛川工場次長[22]

敗戦後、日本学生協会・精神科学研究所は超国家主義団体に指定され、理事だった小田村は教職追放になったと考えられる[25]。1946年1月興風会を結成、雑誌『興風』を発刊(1949年3月号で終刊)[26]。1952年3月すみだ製作所を創業[27]、社長[22]。1953年3月雑誌『新公論』を発刊(1955年2月の第10号で廃刊)[26]。1956年4月国民文化研究会(国文研)を結成、理事長[28]。以来、毎年、全国学生青年合宿教室を開催[29]。1956年4月梶村昇福島一郎松田福松宮崎五郎茂木一郎夜久正雄井上孚麿岡村愛一岡村誠之とともに東京におけるシキシマノミチ会(1928年に三井甲之が結成した団体)を再発足[30]。1965年4月亜細亜大学教養部専任講師となり、「日本思想史」「社会思想」を担当[31]。1972年4月亜細亜大学教授[32]。1974年4月「日本を守る会」代表委員[33]。1978年元号法制化実現国民会議代表委員[34]。1981年10月「日本を守る国民会議」発起人[35]、運営委員(のち代表委員)[36]。1997年5月日本会議代表委員[37]新日本協議会理事も務めた[38]。1999年1月1日付の国文研の会報で理事長交代を予告し、5月15日に上村和男が理事長に就任。3週間後の6月4日に死去した[29]

人物[編集]

  • 楫取素彦(小田村伊之助)と吉田松陰の妹・寿(久子)の曾孫。楫取道明の孫。小田村有芳の次男。父・有芳は楫取素彦の長男・小田村希家の養子。母・治子は楫取素彦の次男・道明の娘。
  • 小田村四郎の兄。2005年に小田村四郎と遠藤欣之助は『月刊日本』誌上で小田村寅二郎および河合栄治郎をめぐって論争を行った[39][40][41][42]
  • 丸山眞男は旧制一中の同級生でレコードの貸し借りをしたり、自宅を行き来したりする親しい友人だった[43]。小田村は1969年夏に全国学生自治体連絡協議会(全国学協)が開催したリーダーズ・ゼミナールで「丸山真男氏の思想と学問の系譜」と題する講義を行い[44]、この時の講義録は全国学協編『"憂国"の論理』(日本教文社、1970年)、小田村寅二郎『学問・人生・祖国――小田村寅二郎選集』(国民文化研究会、1986年)に収められた。三島由紀夫は小田村の丸山論を絶賛したとされる[45]。丸山は『聞き書 南原繁回顧録』(東京大学出版会、1989年)で小田村について以下のように述べている。
南原 津田左右吉先生に質問攻撃をやったのも、その仲間でしょう。
丸山 そうです。そのころ小田村自身は停学中でその場には来ていませんでしたが…。この小田村君と私は中学が同級でよく知っていたのですが、金持の坊ちゃんで、中学時代にアメリカへ旅行したり、一高入試を何回も落ちて、結局、学年度は私より三年あとになりました。中学のころは軟派でどうしようもないくらいでしたが、アメリカから帰ってきてから、いつの間にか急速に右翼になりましてね。一高に入ったころにはもう極右ですよ。寮の委員長になって、一高が本郷から駒場に移転するときには、護国旗を先頭に武装行進しましたが、その先頭にいました。この処分のときも、ぼくの家までやってきましてね。先方はこのときのことを覚えているかどうか知りませんが、学生の学問的な質問に対して先生が返事をくれるのは当り前じゃないか、矢部先生はちゃんと手紙をくれたのに、田中・横田はなんら答えない、しかも処分とは何ごとかというんです。そこで時局論になって何時間も議論して、結局最後には、私は「こうなったら互いに信ずる道を歩むより仕方がないじゃないか。これで君とはきっぱり別れよう」といって、以来、一度もあっていません。[46]
  • 土井郁磨は小田村への蓑田胸喜山本勝市の影響を指摘し、「蓑田、山本、田所・小田村先生のトライアングルは強烈な精神主義と自由経済・反戦時体制、反ソ・反ナチ理論そして当時勅語にしばしば見られた事変早期収拾の陛下のご真意を何よりも重んじ、精確に理解しようとすることで相互に結束して革新派や統制派と鋭く対立してゐた」としている[47]
  • 井上義和は『日本主義と東京大学――昭和期学生思想運動の系譜』(柏書房[パルマケイア叢書]、2008年)で革新右翼と観念右翼の対立が第二次近衛文麿内閣の新体制運動を契機として顕在化したとし、観念右翼の中でもユニークな日本学生協会精神科学研究所の短期決戦論を考察した。また日本学生協会・精神科学研究所の国体論をエリートの自己拘束のための論理、日本型保守主義の原点と位置付けた[48]江崎道朗は『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』(PHP研究所[PHP新書]、2017年)で「「左翼全体主義」と「右翼全体主義」に反発」し、「伝統にさおさし、戦争を短期決戦で終わらせようとした」小田村らの思想と運動の水脈を「保守自由主義」と命名し、これこそが保守本流だとした[49]竹内洋によると、「保守自由主義」は井上によって「日本型保守主義」と命名されているが、「それを左翼全体主義・右翼全体主義の中で位置づけたところ」が江崎の功績である[49]
  • 日本青年協議会(青協)は谷口雅春三島由紀夫、小田村寅二郎、葦津珍彦の4人を「四先生」と崇めている[2]。青協は1970年の結成以前から小田村の指導を受けている[34]。青協からは椛島有三をはじめ多くの者が国文研主催の合宿教室に参加しており[34]、青協と国文研は親密な関係にある[50]
  • 日本学生協会に所属した戦没学徒兵の遺稿集である国民文化研究会編『いのちささげて――戦中学徒・遺詠遺文抄』(国民文化研究会、1978年)の編者代表。『いのちささげて』から4人の遺稿が靖国神社企画・編集の戦没学徒兵遺稿集『いざさらば我はみくにの山桜――「学徒出陣五十周年」特別展の記録』(展転社、1994年)にも選ばれた[51]

著書[編集]

単著[編集]

  • 『大東亞皇化圏論――日本世界政策の一段階』(精神科学研究所、1941年)
  • 『現代日本への警鐘』(自由民主党中央政治大学院[自由民主党中央政治大学院講演資料]、1971年)
  • 『日本思想の源流――歴代天皇を中心に』(日本教文社、1971年)
  • 『昭和史に刻むわれらが道統』(日本教文社、1978年)
  • 『学問・人生・祖国――小田村寅二郎選集』(国民文化研究会[国文研叢書]、1986年)
  • 『「合宿教室」における小田村寅二郎先生の御講義録』(国民文化研究会福岡事務所、2005年)
  • 『小田村寅二郎 遺稿選集――新編「学問・人生・祖国」(全5巻)』(小田村寅二郎遺稿選集編集委員会編、国民文化研究会、2022-23年)

共著[編集]

  • 『教育はかくして改革せらるべし――東大政治學教授矢部貞治氏と學生小田村君の往復文書公表[注 4]』(矢部貞治共著、日本学生協会、1941年)

編著[編集]

  • 『日本思想の系譜――文献資料集(全5冊)』(編、国民文化研究会[国文研叢書]、1967-69年)
    • 『新輯 日本思想の系譜――文献資料集(上・下)』(編、時事通信社、1971年)
  • 『憂国の光と影――田所廣泰遺稿集』(編、国民文化研究会、1970年)
  • 『欧米名著邦訳(明治)集――文献資料集』(編、国民文化研究会[国文研叢書]、1970年)
  • 『歴代天皇の御歌――初代から今上陛下まで二千首』(小柳陽太郎共編、日本教文社、1973年)
  • 『ひとすぢの信――高木尚一遺文・遺歌集』(編、国民文化研究会、1984年)
  • 『入門・聖徳太子十七条憲法』(小柳陽太郎共編、国民文化研究会[国民文化入門選書]、2019年)

脚注[編集]

[編集]

  1. 当時の昭信会は田所廣泰高木尚一加納祐五桑原暁一らが後進を指導していた。学外の三井甲之松本彦次郎蓑田胸喜松田福松らを師と仰ぎ、三井甲之『明治天皇御集研究』と黒上正一郎『聖徳太子の信仰思想と日本文化創業』を学習していた[10]
  2. 占部賢志によれば、総務部長に就任[11]堀幸雄『右翼辞典』(三嶺書房、1991年)の「小田村寅二郎」の項目および国民文化研究会編『追悼 小田村寅二郎先生』(国民文化研究会、2000年)の略年譜によれば、理事に就任[5][19]。『右翼辞典』(三嶺書房、1991年)の「日本学生協会」の項目では、理事は高木尚一桑原暁一加納祐五[15]
  3. 社会問題研究会編『右翼事典――民族派の全貌』(双葉社、1970年)の年表によれば、1940年12月10日結成[21]。堀幸雄『右翼辞典』(三嶺書房、1991年)の「小田村寅二郎」の項目によれば、1940年5月結成[5]。国民文化研究会編『追悼 小田村寅二郎先生』(国民文化研究会、2000年)の略年譜によれば、1941年2月結成[19]
  4. 扉に記載されたタイトルは『日本政治學原理を追求して――東京帝國大學法學部政治學教授矢部貞治氏と學生小田村寅二郎君との學術論争往復文書』。

出典[編集]

  1. 第3部 中学校時代 | デジタル版展示『知識人の自己形成 ─ 丸山眞男・加藤周一の出生から敗戦まで』 立命館大学図書館
  2. a b 藤生明日本会議と葦津珍彦PDF」『現代宗教 2018』国際宗教研究所、2018年
  3. 夜久正雄「太田耕造先生と興国同志会の人々」『亜細亜大学教養部紀要』第29巻、1984年
  4. a b 植村和秀「書評誌『読書人』の国内思想戦――1940年代前半日本の言論空間研究(3・完)」『産大法学』55巻3・4号、2022年1月
  5. a b c d e f g 堀幸雄『右翼辞典』三嶺書房、1991年、82頁
  6. 国民文化研究会編『追悼 小田村寅二郎先生』国民文化研究会、2000年、385頁
  7. 国民文化研究会編『追悼 小田村寅二郎先生』国民文化研究会、2000年、28頁
  8. a b c 国民文化研究会編『追悼 小田村寅二郎先生』国民文化研究会、2000年、386頁
  9. 社会問題研究会編『右翼事典――民族派の全貌』双葉社、1970年、122頁
  10. 国民文化研究会編『追悼 小田村寅二郎先生』国民文化研究会、2000年、31-32頁
  11. a b c d e f 占部賢志「東京帝国大学における学生思想問題と学内管理に関する研究――学生団体「精神科学研究会」を中心にPDF」『飛梅論集』第4巻、2004年3月
  12. a b 国民文化研究会編『追悼 小田村寅二郎先生』国民文化研究会、2000年、387頁
  13. 廣瀬誠「小田村寅二郎さんの思ひ出」、国民文化研究会編『追悼 小田村寅二郎先生』国民文化研究会、2000年、231頁
  14. 国民文化研究会編『追悼 小田村寅二郎先生』国民文化研究会、2000年、65頁
  15. a b c 堀幸雄『右翼辞典』三嶺書房、1991年、470頁
  16. a b 高橋新太郎「集書日誌 河合教授事件の裏文献PDF」『彷書月刊』1993年10月号
  17. 堀幸雄『右翼辞典』三嶺書房、1991年、419頁
  18. 木下半治『日本国家主義運動史Ⅰ』福村出版、1971年、151頁
  19. a b c 国民文化研究会編『追悼 小田村寅二郎先生』国民文化研究会、2000年、388頁
  20. 社会問題研究会編『右翼・民族派事典』国書刊行会、1976年、257頁
  21. a b 社会問題研究会編『右翼事典――民族派の全貌』双葉社、1970年、428頁
  22. a b c 人事興信所編『人事興信録 第24版 上』人事興信所、1968年、お48頁
  23. a b 国民文化研究会編『追悼 小田村寅二郎先生』国民文化研究会、2000年、389-390頁
  24. 名越二荒之助「私の体験した「国文研」前史―小田村理事長を中心に―」、国民文化研究会編『追悼 小田村寅二郎先生』国民文化研究会、2000年、249頁
  25. 国民文化研究会編『追悼 小田村寅二郎先生』国民文化研究会、2000年、72頁
  26. a b 国民文化研究会編『追悼 小田村寅二郎先生』国民文化研究会、2000年、72-76、390-391頁
  27. 国民文化研究会編『追悼 小田村寅二郎先生』国民文化研究会、391頁
  28. 国民文化研究会編『追悼 小田村寅二郎先生』国民文化研究会、392頁
  29. a b 「追悼 小田村寅二郎先生」『祖国と青年』第30巻第7号(通巻250号)、1999年7月
  30. 横川翔「松田福松の足跡――三井甲之とその同志たちの一側面」『國學院雜誌』第117巻第9号、2016年9月
  31. 国民文化研究会編『追悼 小田村寅二郎先生』国民文化研究会、395頁
  32. 国民文化研究会編『追悼 小田村寅二郎先生』国民文化研究会、398頁
  33. 国民文化研究会編『追悼 小田村寅二郎先生』国民文化研究会、399頁
  34. a b c 田中和子「追悼 小田村寅二郎先生」『祖国と青年』第30巻第8号(通巻251号)、1999年8月
  35. 朝日新聞社会部『「政治」の風景』すずさわ書店、1984年、141頁
  36. 国民文化研究会編『追悼 小田村寅二郎先生』国民文化研究会、400頁
  37. 国民文化研究会編『追悼 小田村寅二郎先生』国民文化研究会、401頁
  38. 林雅行「教科書『新編日本史』二年目の内幕」『マスコミ市民 : ジャーナリストと市民を結ぶ情報誌』第233号、1988年2月
  39. 遠藤欣之助「立花隆に問う 『文藝春秋』連載「私の東大論」への疑問 河合栄治郎の思想――『人民戦線』へ傾斜?」『月刊日本』第9巻第8号(通号100)、2005年8月
  40. 小田村四郎「遠藤欣之助氏に反論する――河合教授と人民戦線問題 小田村寅二郎は「虚構」の「捏造者」か」『月刊日本』第9巻第9号(通号101)、2005年9月
  41. 遠藤欣之助「小田村四郎氏に答える 実兄・寅二郎の発言は"事実の虚構"――東大教授・河合栄治郎追放 人を陥れるに手段を選ばぬ好個の適例」『月刊日本』第9巻第10号(通号102)、2005年10月
  42. 小田村四郎「再度遠藤欣之助氏に答へる 「言論の節度」について」『月刊日本』第9巻第11号(通号103)、2005年11月
  43. 国民文化研究会編『追悼 小田村寅二郎先生』国民文化研究会、28頁
  44. 百地章「「歴代天皇を憶念する」といふこと」『祖国と青年』第30巻第8号(通巻251号)、1999年8月
  45. 戸田義雄「書き遺された二つの高論をめぐる切実な追懐」、国民文化研究会編『追悼 小田村寅二郎先生』国民文化研究会、200-201頁
  46. 丸山真男、福田歓一編『聞き書 南原繁回顧録』(東京大学出版会、1989年、230頁
  47. 土井郁磨「研究史上における小田村先生」、国民文化研究会編『追悼 小田村寅二郎先生』国民文化研究会、354頁
  48. 河西秀哉「<書評> 井上義和著『日本主義と東京大学』PDF」『京都大学大学文書館研究紀要』第8号、2010年2月
  49. a b 【書評】京都大学名誉教授・竹内洋が読む『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』江崎道朗著 戦前、右翼左翼に取り込まれなかった真の保守本流の姿(2/2ページ) 産経ニュース、2017年9月17日
  50. 小堀桂一郎「柔和と剛直と――小田村寅二郎先生を偲ぶ」『祖国と青年』第30巻第8号(通巻251号)、1999年8月
  51. 高田里惠子「編集と誤読――戦没学徒兵の手記をめぐって」『桃山学院大学人間科学』No.33、2007年6月

関連文献[編集]

  • 水野正次『精神科學研究所の凶逆性――田所廣泰一派の陰謀を撃つ』(國民評論社、1943年)
  • 矢部貞治著、日記刊行会編『矢部貞治日記 銀杏の巻』(読売新聞社、1974年)
  • 井上義和「戦時期の右翼学生運動――東大小田村事件と日本学生協会」、竹内洋、佐藤卓己編『日本主義的教養の時代――大学批判の古層』(柏書房[パルマケイア叢書]、2006年)
  • 植村和秀『「日本」への問いをめぐる闘争――京都学派と原理日本社』(柏書房、2007年)
  • 井上義和、打越孝明、占部賢志解題『日本主義的学生思想運動資料集成 第Ⅰ期 雑誌篇(全9巻)』(柏書房、2007年)
  • 井上義和、打越孝明、占部賢志解題『日本主義的学生思想運動資料集成 第Ⅱ期 書籍・パンフレット篇(全10巻)』(柏書房、2008年)
  • 高瀬正仁『岡潔とその時代 I 正法眼蔵――評傳岡潔 虹の章』(みみずく舎 、発売:医学評論社、2013年)
  • 尾原宏之『「反・東大」の思想史』(新潮社[新潮選書]、2024年)

外部リンク[編集]