エドワード3世
エドワード3世(英:Edward III)とは、イングランド・プランタジネット朝の7代目国王。
若年期[編集]
1312年11月13日、イングランド王エドワード2世と王妃イザベラ・オブ・フランスの長男として生まれる。彼が14歳の時の1326年、父王とその寵臣ディスペンサー親子の暴政に耐えかねた母イザベラが反乱を起こしエドワード2世を廃位、王太子のエドワードがエドワード3世として即位した。しかし、今度は摂政となった母イザベラとその愛人ロジャー・モーティマーが権勢を振るうようになった。イザベラは王の許可なくエドワードの叔父のケント伯を処刑し、憤慨したエドワードは1330年にイザベラとモーティマーを逮捕した。モーティマーは四つ裂きにされて殺され、イザベラは幽閉された。これによりエドワード3世は18歳で親政を開始することになった。
統治[編集]
エドワード3世はスコットランドの反乱に介入してスコットランド王デイヴィッド2世を破り、南部を割譲させることに成功した。また、それまでは王の諮問機関に過ぎなかった都市の代表なども参加する代議制議会(事実上の庶民院)を頻繁に招集し、イギリスの二院制議会の基礎を確立した。
百年戦争[編集]
1328年、フランス王シャルル4世が崩御したことでカペー朝が断絶し、ヴァロワ家のフィリップ6世が新たな国王に即位した。ヴァロワ朝のフランスはカペー朝よりもいっそうイングランドに対する対立姿勢を鮮明にし、両国の関係は悪化していった。1337年、フィリップ6世はイングランドの大陸領土の没収を宣言。これに対しエドワードは自身がフィリップ4世の孫であることを根拠にフランス王位を主張しフランスに侵攻した。
当初イングランド軍は苦戦したものの、1346年にエドワード自ら兵を率いてフランスに親征し、8月26日のクレシーの戦いで大勝したことで戦争の主導権を握った。翌年9月には重要港市のカレーを陥落させた。なお、この時6人の市民代表が降伏を申し入れに陣中のエドワード3世の元を訪れた。包囲が長引いたことに苛立っていたエドワードは全員の処刑を命じたが、王妃フィリッパの涙ながらの説得に折れて思いとどまったという伝承がある(カレーの市民)。
百年戦争は1347年にペスト流行の影響で一時的に休戦したが、1355年に戦争が再開された。1356年、エドワード黒太子の指揮するイングランド軍はポワティエにて仏王ジャン2世を捕虜にする大勝利を収めた。1360年に講和条約が締結され、これによりエドワードは北フランスの広大な領土を獲得した。しかしこれが彼の人生の最高点だった。
転落、暗君化[編集]
1369年に長年の伴侶であった賢妃フィリッパが亡くなると、エドワードは精神的・肉体的にも次第に衰えていった。フランスは新国王シャルル5世の元で急速な軍政と財政改革を成功させており、同年に百年戦争が再開するとイングランド軍は敗北を重ね、大陸の領土は縮小の一途を辿った。当のエドワードは愛称アリス・ペラーズに夢中になって政治を省みず、国民や貴族の失望を買った。1376年に長男のエドワード黒太子に先立たれ、翌1377年6月21日にエドワード3世も崩御した。享年64。なお、臨終を見届けたのはアリスと使用人と教戒師だけで、エドワードが息を引き取ったのを確認したアリスは彼の宝石を全て剥ぎ取って立ち去り、使用人も逃げ出して教戒師だけが残ったという。孫のリチャード2世が王位を継いだが、これが一因となりやがてイングランドは薔薇戦争の惨禍へ突入していくこととなる。