渡邊廣
渡邊 廣(わたなべ ひろし、1913年12月3日[1] - 1996年9月14日[2])は、日本史学者。和歌山大学名誉教授。地理学者の渡辺光は弟[3]。渡辺広、渡辺廣とも表記される。
経歴[編集]
東京市生まれ。1938年東京師範学校(文科第四部歴史・地理専攻)卒業。鳥取県立鳥取第一中学校教諭。1943年東京文理科大学史学科国史学専攻卒業。和歌山師範学校助教授兼教諭、1945年教授。1951年和歌山大学学芸学部助教授、1965年教授(1966年教育学部に改称)[1]。1966年「未開放部落の史的研究 : 紀州を中心として」で文学博士(東京教育大学)[4]。1979年定年退官[1]。
和歌山県同和問題研究委員会委員、大塚史学会評議員、歴史教育者協議会評議員、和歌山大学教職員組合中央執行委員長などを務めた[1]。1979年時点で部落問題研究所評議員、和歌山県アジア・アフリカ連帯委員会理事長、和歌山県教育研究所運営委員、和歌山県歴史教育者協議会会長、和歌山県部落問題研究協議会副会長、日本国民救援会和歌山県本部会長[1]。
人物[編集]
部落問題の歴史的研究で知られる。1950年から和歌山師範学校(のち和歌山大学教育学部)で社会科教育を担当し[5]、社会科教育、同和教育、教員養成、地方史に関する論考も発表した[6]。部落問題に関する研究の大半は『未解放部落の史的研究』(吉川弘文館、1963年)、『未解放部落の形成と展開』(吉川弘文館、1977年)、『未解放部落の源流と変遷』(部落問題研究所出版部、1994年)の三部作に収められている[2]。
鈴木良『部落問題の史的究明』(校倉書房、1976年)の解説によると、1956年の日本史研究会大会で「近世におけるカワタ(未解放部落民)の土地所有について」という個別報告を行ったが、「近世初頭において皮田のかなりの土地所有がみられるという渡辺の報告にたいし、司会の某氏がそれを特殊事例であると軽視し、冷笑をあびせた」という[7]。鈴木『歴史の楽しさ――地域を歩く』(部落問題研究所、1999年)によると、司会の某氏とは奈良本辰也である。渡辺はこれ以後、意識的に学会とのつきあいを断った[8]。東上高志によると、木村京太郎がいたために、評議員・研究員として部落問題研究所とのつきあいは断たなかった[9]。
論文「散所のことなど――紀州を中心として」(『和歌山大学学芸学部紀要』人文科学6、1956年。『未解放部落の史的研究』に収録)で林屋辰三郎の散所論に対し、本所に対する散所という捉え方をして、前期散所は卑賤視と直接関係するものではないことを指摘した。脇田晴子の『日本中世商業発達史の研究』(御茶の水書房、1969年)で渡辺の指摘は確定的となった[10]。被差別部落の古代起源説の根拠となっていた散所への差別が古代には存在しなかったことを指摘した渡辺や脇田、丹生谷哲一らの研究、および黒田俊雄の「中世の身分制と卑賤観念」(『部落問題研究』第33輯、1972年5月)は古代と中世の賤民がつながらないことを明らかにし、部落の起源を中世まで連続させても問題ないとする考えを研究者の間に定着させる契機となった[11]。
鈴木良は渡辺の論文「未解放部落の成立をめぐる学会の動向」(『部落問題研究』創刊号、1957年12月)について戦後の部落問題の歴史的研究を「部落史」の段階から「部落問題の歴史的研究」の段階に飛躍させ、部落問題研究の第二期を画するものと評価している[2]。鈴木によると、渡辺は紀州地域の近世史料を広く探し、これに基づいて林屋辰三郎の散所を賤民の起源とする説、近世賤民は土地を持っていなかったとする説、壬申戸籍に「新平民」と書かれていたという誤りなどの通説を覆した。研究の積み重ねの結果、えた身分の起源について喜田貞吉と同一の結論に達した[2]。
中世社会起源説で知られる峯岸賢太郎は渡辺から大きな影響を受けた[12]。峯岸によると、中世身分制研究において重要な論考として知られる横井清の「日本中世における卑賤観の展開とその条件」(『部落問題研究』第12輯、1962年12月。『中世民衆の生活文化』所収)は渡辺の共同体疎外論の発展を意図するものである[13]。
著書[編集]
- 『歴史的に見た紀州の未解放部落一覧表――戸数、人口を中心として』(和歌山大学紀州経済史文化史研究所[紀州史研究叢書]、1962年)
- 『未解放部落の史的研究――紀州を中心として』(吉川弘文館、1963年)
- 『近世後期における未解放部落の持高分けに関する一史料』(和歌山大学紀州経済史文化史研究所[紀州史研究叢書]、1968年)
- 『紀州有田郡吉原組の二三の史料とその解説』(和歌山大学紀州経済史文化史研究所[紀州史研究叢書]、1970年)
- 『紀州における慶長検地と皮田』(和歌山大学紀州経済史文化史研究所[紀州史研究叢書]、1971年)
- 『伊都郡東家組の一史料について――近世初期の村落構造と隷属民を中心に』(和歌山大学紀州経済史文化史研究所[紀州史研究叢書]、1972年)
- 『河原から皮田へ――紀州那賀郡狩宿村の成立を中心として』(和歌山大学紀州経済史文化史研究所[紀州史研究叢書]、1973年)
- 『部落問題の歴史年表(前近代)』(編、和歌山県部落問題研究協議会、1975年)
- 『皮田部落における宗教の役割――勧化迅雷鈔について』(和歌山大学紀州経済史文化史研究所[紀州史研究叢書]、1976年)
- 『近世中期における紀州の未解放部落』(和歌山大学紀州経済史文化史研究所[紀州史研究叢書]、1977年)
- 『未解放部落の形成と展開――紀州を中心として』(吉川弘文館、1977年)
- 『未解放部落の源流と変遷――紀州を中心として』(部落問題研究所出版部、1994年)
出典[編集]
- ↑ a b c d e 前田一郎編「渡辺広先生略年譜・著書論文目録」、渡辺広先生退官記念会編『和歌山の歴史と教育』渡辺広先生退官記念会、1979年
- ↑ a b c d 鈴木良「渡辺広先生を偲んで」『部落』第612号、1996年11月
- ↑ 山本荘毅「知遇」、渡辺光先生追悼録刊行会編『渡辺光――その人と仕事』渡辺光先生追悼録刊行会、1985年
- ↑ 未開放部落の史的研究 : 紀州を中心として CiNii Research
- ↑ 渡辺広「「略年譜」と「著者論文目録」を読まれる方々に」、渡辺広先生退官記念会編『和歌山の歴史と教育』渡辺広先生退官記念会、1979年
- ↑ 渡辺広先生退官記念会「序」、渡辺広先生退官記念会編『和歌山の歴史と教育』渡辺広先生退官記念会、1979年
- ↑ 鈴木良編集・解説『歴史科学大系 第21巻 部落問題の史的究明』校倉書房、1976年、310頁
- ↑ 鈴木良『歴史の楽しさ――地域を歩く』部落問題研究所、1999年
- ↑ 東上高志「川端分館の頃・秋の自伝的な回想(その4)三人の運動家」『人権と部落問題』第691号、2002年7月
- ↑ 丹生谷哲一「中世の身分と差別はどのようなものだったか」、峰岸純夫編『争点日本の歴史 第4巻 中世編』新人物往来社、1991年
- ↑ 上杉聰『部落史がかわる』三一書房、1997年、50-51頁
- ↑ 西木浩一「追想 峯岸賢太郎氏を偲ぶ」『歴史評論』第680号、2006年12月
- ↑ 峯岸賢太郎「近世賎民制の基礎構造」『部落問題研究』第89号、1986年12月
関連文献[編集]
- 部落問題研究所編『部落史の研究 前近代篇』(部落問題研究所出版部、1978年)
- 三枝暁子「中世身分制研究の軌跡と展望」(『親鸞仏教センター通信』第75号(PDF)、2020年12月)