新快速 (JR西日本)の歴史
ここではJR西日本の新快速の歴史を記す。
前史[編集]
京阪神圏での鉄道路線は3つの事業者が明治時代から並行し、競争が激しかった。京阪電気鉄道、新京阪電気鉄道、阪神電気鉄道が開業当時から直流電化していたのに対して官営鉄道は蒸気機関車牽引の客車列車であった。しかし、複々線化によって鉄道省C11形蒸気機関車による頻発運転によるフリークエンシーが行われた。高槻駅と神戸駅の間で直流電化されると鉄道省モハ42形電車、鉄道省モハ43形電車が投入され、「急行電車」と称して運転された。直流電化区間は京都駅まで延長され、鉄道省モハ52形電車や合いの子が投入されて、並行私鉄と互角な勝負を行った。しかし、戦時体制によって急行電車の本数と編成が削減された。太平洋戦争後は復興が進み、急行電車も元の編成、本数に戻ったが、国鉄モハ80系電車投入によって、鉄道省モハ52形電車と合いの子は阪和線へ、鉄道省モハ42形電車と鉄道省モハ43形電車は横須賀線に投入された。
増発と車両更新[編集]
1970年8月[編集]
京都-西明石間で、日中のみ毎時1本運行開始。途中、大阪、三ノ宮、明石と、各主要都市あたり1駅のみに停車していた。当時は快速同様、車両は国鉄113系電車を使用していた。
1972年[編集]
山陽新幹線岡山駅開業による急行列車の一部廃止によって国鉄153系電車を新快速投入。
昭和61年11月1日日本国有鉄道ダイヤ改正[編集]
国鉄最後のダイヤ改正。長年の慣例を破って、新快速は複々線の外側(列車線)の走行に切り替えられた。これにより、快速・普通の電車ダイヤから分離されたが、この時点ではデータイム中心の運転であった。運行区間は、西は全て姫路まで運行となり、東も近江舞子、彦根まで運行される列車が設定された。
1988年3月[編集]
JR西日本が発足してからはじめてのダイヤ改正が行われ、京阪神地区の東海道本線と山陽本線に琵琶湖線とJR京都線とJR神戸線の愛称が導入された。新快速は彦根駅発着の列車のうち、下りの午前と夕方以降の上下列車を対象に米原駅に延長させたほか、夜間および朝方の運転時間帯を拡大した。大阪駅を基準にすると始発・終着を含む下りの17~20時台、上りの18~21時台が毎時3本の20分間隔のパターンで設定された。運転本数は上下合わせて20本余り増えて90本台の半ばまで到達した。
1989年3月[編集]
この改正では、アーバンネットワークのPR展開が始まり、新設計の3扉転換クロスシートの221系が投入された。221系は通勤時間帯の円滑な輸送と、データイムの買い物や休日の観光・レジャー客に向けた良好な居住空間を両立させることをコンセプトに掲げ、ハイグレードな間隔とパノラミックな車窓を提供する内外装のトータルデザインにも意が注がれた。車体構造は、当時はすでに近郊型車両や通勤型車両で主流となっていたステンレス製ではなく鋼製を採用し、大型の曲面ガラスを組み合わせた先頭部や、段差を抑えた滑らかなサイドビューが軽快で洗練された印象を与えた。客室はブラウン系統を基調に天井を高くし、ワイドな窓と相まって明るく開放的な空間にまとめられた。また、この改正により、新快速の運転本数は110本を突破し、時間帯も朝ラッシュ時から深夜帯までカバーしたほか、朝方と下りの大阪行き最終を除いて等間隔ダイヤに統一された。上下ともに、平日の初電は大阪発基準で9時台前半から7台後半に繰り上がり、夜間は20時台まで20分間隔になった。また、朝方の増発された3往復には新快速初の12両編成が登場し、117系と221系のどちらも充当された。データイムは、彦根駅と京都駅発着を米原に延長の上30分間隔とし、この間に草津駅と近江舞子駅発着を交互に運転した。しかし、湖西線直通は近江今津駅への多客期延長を取りやめた。