掛川市立東山口小学校
テンプレート:Infobox 日本の学校 掛川市立東山口小学校(かけがわしりつ ひがしやまぐちしょうがっこう)は、静岡県掛川市にある公立小学校。
1873年(明治6年)の創立以来、150年以上の歴史を有する伝統校である。かつての小笠郡東山口村をルーツとし、明治、大正、昭和の激動期を経て、地域教育の中心として発展してきた。独自の校訓である「一源三流(いちげんさんりゅう)」は、明治末期に制定されて以来、戦後の一時中断を経て現代に至るまで、児童および教職員の精神的支柱として脈々と受け継がれている。
児童数の減少に伴い、2027年(令和9年)4月に掛川市立日坂小学校との統合が予定されており、本校の敷地・校舎が統合校として使用されることが決定している。
概要[編集]
掛川市の東部、豊かな自然に囲まれた丘陵地帯に位置する。現在の校舎は、1980年(昭和55年)に旧掛川市立栄川中学校の跡地(通称:小鷹が丘)へ移転新築されたものである。校歌にも歌われる「小鷹が丘」の高台からは、東山口地区の田園風景と町並みを一望することができる。
教育目標に「夢をもち 共に高め合う子」を掲げ、伝統的な「一源三流」の教えを現代的な教育活動に取り入れた指導を行っている。
校訓「一源三流」[編集]
本校の最大の特徴は、1910年(明治43年)に制定された伝統ある校訓「一源三流(いちげんさんりゅう)」である。
- 一源(いちげん)
- すべての行いの根源となる「誠(まこと)」の心。
- 三流(さんりゅう)
- 「誠」という一つの源から流れ出る、以下の三つの実践徳目。
- 勤労の汗(きんろうのあせ) - 惜しまず働き、努力すること。
- 親切の涙(しんせつのなみだ) - 他者を思いやる温かい心を持つこと。
- 勇気の血(ゆうきのち) - 正しいことを実践する強い意志と実行力を持つこと。
制定の経緯[編集]
日露戦争後の1910年(明治43年)、当時の第3代校長であった山本芳太郎が、国民道徳の涵養を目指して発布された戊申詔書の趣旨を教育現場に具現化するため、職員との協議を経て制定したものである。「宜しく上下心を一にして忠実業に服し勤倹産を治め惟れ信惟れ義淳厚俗をなし華を去り実につき荒怠相誡め自彊息まざるべし」という詔書の精神を、児童にも分かりやすい「汗・涙・血」という身体的な言葉に置き換え、教育の指針とした。
戦後の変遷と復活[編集]
第二次世界大戦後、民主主義教育への転換が進む中で、「一源三流」は軍国主義的な色彩を帯びた古い教えと見なされ、一時的に校訓としての使用が停止された。昭和20年代には「明・礼・断」といった新しい校訓が掲げられた時期もあった。 しかし、1953年(昭和28年)、当時の校長であった堀徳太郎が「時代が変わっても、人として大切な『誠』の心や『勤労・親切・勇気』の徳目は不変である」として、戦前の校訓であった「一源三流」を復活させた。以来、この校訓は現在に至るまで同校の精神的支柱として堅持されている。
校歌[編集]
作詞:岩崎 覚 作曲:本間 彦作 昭和26年度制定
児童数の変遷[編集]
太字文
| 西暦 | 和暦 | 児童数 |
|---|---|---|
| 1886 | 明治19年 | 145人 |
| 1887 | 明治20年 | 169人 |
| 1888 | 明治21年 | 178人 |
| 1889 | 明治22年 | 169人 |
| 1890 | 明治23年 | 173人 |
| 1891 | 明治24年 | 160人 |
| 1892 | 明治25年 | 155人 |
| 1893 | 明治26年 | 212人 |
| 1894 | 明治27年 | 281人 |
| 1895 | 明治28年 | 248人 |
| 1896 | 明治29年 | 194人 |
| 1897 | 明治30年 | 194人 |
| 1898 | 明治31年 | 212人 |
| 1899 | 明治32年 | 225人 |
| 1900 | 明治33年 | 208人 |
| 1901 | 明治34年 | 193人 |
| 1902 | 明治35年 | 187人 |
| 1903 | 明治36年 | 245人 |
| 1904 | 明治37年 | 209人 |
| 1905 | 明治38年 | 287人 |
| 1906 | 明治39年 | 292人 |
| 1907 | 明治40年 | 288人 |
| 1908 | 明治41年 | 319人 |
| 1909 | 明治42年 | 333人 |
| 1910 | 明治43年 | 372人 |
| 1911 | 明治44年 | 395人 |
| 1912 | 明治45年/大正元年 | 402人 |
| 1913 | 大正2年 | 405人 |
| 1914 | 大正3年 | 425人 |
| 1915 | 大正4年 | 421人 |
| 1916 | 大正5年 | 410人 |
| 1917 | 大正6年 | 430人 |
| 1918 | 大正7年 | 432人 |
| 1919 | 大正8年 | 428人 |
| 1920 | 大正9年 | 420人 |
| 1921 | 大正10年 | 434人 |
| 1922 | 大正11年 | 448人 |
| 1923 | 大正12年 | 440人 |
| 1924 | 大正13年 | 424人 |
| 1925 | 大正14年 | 415人 |
| 1926 | 大正15年/昭和元年 | 417人 |
| 1927 | 昭和2年 | 418人 |
| 1928 | 昭和3年 | 425人 |
| 1929 | 昭和4年 | 450人 |
| 1930 | 昭和5年 | 461人 |
| 1931 | 昭和6年 | 479人 |
| 1932 | 昭和7年 | 495人 |
| 1933 | 昭和8年 | 510人 |
| 1934 | 昭和9年 | 511人 |
| 1935 | 昭和10年 | 507人 |
| 1936 | 昭和11年 | 502人 |
| 1937 | 昭和12年 | 511人 |
| 1938 | 昭和13年 | 517人 |
| 1939 | 昭和14年 | 494人 |
| 1940 | 昭和15年 | 485人 |
| 1941 | 昭和16年 | 464人 |
| 1942 | 昭和17年 | 461人 |
| 1943 | 昭和18年 | 461人 |
| 1944 | 昭和19年 | 504人 |
| 1945 | 昭和20年 | 543人 |
| 1946 | 昭和21年 | 561人 |
| 1947 | 昭和22年 | 441人 |
| 1948 | 昭和23年 | 442人 |
| 1949 | 昭和24年 | 457人 |
| 1950 | 昭和25年 | 449人 |
| 1951 | 昭和26年 | 424人 |
| 1952 | 昭和27年 | 401人 |
| 1953 | 昭和28年 | 395人 |
| 1954 | 昭和29年 | 407人 |
| 1955 | 昭和30年 | 431人 |
| 1956 | 昭和31年 | 444人 |
| 1957 | 昭和32年 | 466人 |
| 1958 | 昭和33年 | 505人 |
| 1959 | 昭和34年 | 519人 |
| 1960 | 昭和35年 | 501人 |
| 1961 | 昭和36年 | 465人 |
| 1962 | 昭和37年 | 442人 |
| 1963 | 昭和38年 | 418人 |
| 1964 | 昭和39年 | 383人 |
| 1965 | 昭和40年 | 357人 |
| 1966 | 昭和41年 | 326人 |
| 1967 | 昭和42年 | 311人 |
| 1968 | 昭和43年 | 288人 |
| 1969 | 昭和44年 | 262人 |
| 1970 | 昭和45年 | 258人 |
| 1971 | 昭和46年 | 232人 |
| 1972 | 昭和47年 | 225人 |
| 1973 | 昭和48年 | 217人 |
| 1974 | 昭和49年 | 213人 |
| 1975 | 昭和50年 | 213人 |
| 1976 | 昭和51年 | 217人 |
| 1977 | 昭和52年 | 238人 |
| 1978 | 昭和53年 | 231人 |
| 1979 | 昭和54年 | 247人 |
| 1980 | 昭和55年 | 248人 |
| 1981 | 昭和56年 | 258人 |
通学区域[編集]
掛川市の東部一帯を広範な学区とする。旧東山口村の歴史的なコミュニティを基盤としており、以下の地区から児童が通学している。
- 宮村
- 海老名
- 影森
- 塩井川原
- 寺ヶ谷
- 伊達方
- 新田
- 本所
- 原子
- 牛頭
- 山鼻
- 木割
- 千羽
- 池下
- 進学先中学校
- 掛川市立栄川中学校(本校の卒業生は基本的に同中学校へ進学する)
沿革[編集]
明治・大正期[編集]
- 1873年(明治6年)11月3日 - 千羽学校として千羽平安寺に仮校舎を置き開校。同時期に東山口地区内には八坂学校、小鷹学校などの前身校も存在した。
- 1892年(明治25年)12月2日 - 町村制施行に伴う学校統合により、東山口村立東山口尋常小学校と改称。名実ともに東山口村の中心的教育機関となる。
- 1910年(明治43年)4月 - 山本芳太郎校長により、校訓「一源三流」が制定される。
- 1911年(明治44年) - 実業教育の充実を図るため、農業補習学校を併設。
- 1925年(大正14年) - 校旗を樹立。
昭和期(戦前・戦中)[編集]
- 1935年(昭和10年) - 青年学校令により、青年学校が開校。地域の青年教育の一翼を担う。
- 1941年(昭和16年)4月1日 - 国民学校令施行により、東山口国民学校と改称。初等科および高等科を設置。
昭和期(戦後)・平成期[編集]
- 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制)の実施により、東山口村立東山口小学校と改称。
- 1953年(昭和28年) - 戦後一時変更されていた校訓「一源三流」が、堀徳太郎校長により正式に復活・再制定される。
- 1954年(昭和29年)
- 3月31日 - 東山口村が掛川町へ編入合併し、即日市制施行。これにより**掛川市立東山口小学校**と改称。
- 1956年(昭和31年)8月 - プールが完成。
- 1962年(昭和37年)3月7日 - 給食室が完成し、完全給食を開始。
- 1966年(昭和41年)3月 - 屋内運動場(体育館)が完成。
- 1973年(昭和48年) - 創立100周年記念式典を挙行。地域の悲願であった記念事業として、各種教育設備が整備される。
- 1980年(昭和55年)4月1日 - 校舎老朽化と教育環境の刷新のため、旧掛川市立栄川中学校跡地(現在の所在地)へ移転。新校舎での教育活動を開始。
- 1980年(昭和55年)7月7日 - 新プール完成。
令和期(学校再編)[編集]
- 2024年(令和6年)9月20日 - 日坂地区・東山地区より、掛川市立日坂小学校と本校との統合に関する要望書が掛川市へ提出される。
- 2025年(令和7年)5月28日 - 日坂小学校・東山口小学校統合準備委員会が発足。
- 2027年(令和9年)4月1日 - 掛川市立日坂小学校と統合予定。
日坂小学校との統合計画[編集]
掛川市北部の日坂・東山地区における少子化の進行に伴い、掛川市立日坂小学校では児童数が著しく減少し、2025年度(令和7年度)より複式学級が導入される状況となった。これを受け、教育環境の改善を目的として、日坂小学校と東山口小学校の統合に向けた協議が進められている。
経緯[編集]
2022年(令和4年)10月より、日坂・東山地区において「日坂小学校の今後のあり方検討会」が発足し、協議が重ねられた。その結果、2024年(令和6年)9月に地域およびPTAの総意として、東山口小学校との統合を求める要望書が掛川市長および教育長へ提出された。この要望を受け、2025年(令和7年)5月に両校の保護者や地域住民、学校関係者を含む「日坂小学校・東山口小学校統合準備委員会」が設置された。
決定事項と方針[編集]
2025年時点での主な決定事項および方針は以下の通りである。
- 統合時期:2027年(令和9年)4月
- 設置場所:現在の東山口小学校(掛川市逆川1012-1)
- 学童保育:統合せず、各地区(日坂・東山・東山口)の現在地で継続して運営する。
- 通学手段:日坂地区からの通学距離が長くなるため、路線バスの活用およびスクールバスの運行により負担軽減を図る。
- 学校運営:日坂地区からは「単なる吸収合併ではなく、新たな学校の再構築」が強く要望されており、統合準備委員会において新しい学校名、校歌、校章の扱いについて協議が進められている。
なお、東山口小学校の敷地北東部は土砂災害警戒区域に近接していたが、隣接する幼稚園側に擁壁を設置する対策工事が完了しており、校舎・体育館ともに特別警戒区域からは除外され安全性が確保されている。
著名な出身者[編集]
- 榛葉淳(ソフトバンク株式会社代表取締役副社長兼COO)
- 榛葉昌寛(国際的男声テノール歌手)
- 鈴木理一郎(初・2代掛川市長、掛川藩御用達)
- 榛葉虎之助(6・7代掛川市長、榛葉武太夫、旧東山口村長)
- 竹嶋善雄(旧東山口村長、大正・昭和期の青年団リーダー)
- 鈴木八郎(静岡県会議員、自由民権運動家、掛川銀行頭取)
- 鈴木正季(教育者、小笠郡教育会長、日本校長会副会長)
関連事項[編集]
名跡・周辺[編集]
参考文献[編集]
- 『百周年記念誌 かしの木とともに』 東山口小学校校百周年誌編集委員会、東山口小学校創立百周年記念事業実行委員会、静岡県掛川市、1982年3月31日。