メアリー1世 (イングランド女王)

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メアリー1世(英:Mary I)とは、イングランド・テューダー朝の5代目国王。「ブラッディ・メアリー(血まみれメアリー)」とも呼ばれる。

多難な前半生[編集]

1516年2月18日に生まれる。父はヘンリー8世、母は最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴン。メアリー王女は健康で父親似(ヘンリー8世は若い頃は美形だった)の美しい容姿をしており、両親に大変可愛がれらた。スペイン出身の母の影響を受け、熱心なカトリック信者に育った。ところが1533年、ヘンリー8世は男子が出来ないことを理由にキャサリン・オブ・アラゴンと強引に離婚し、キャサリンの侍女アン・ブーリンと再婚した。これによりメアリーは庶子の身分に落とされ、王位継承権を失った[1]。アンはメアリーに対し自分を正当な王妃と認めるよう迫ったが拒否された。激怒したアンはメアリーを自身とヘンリー8世の娘エリザベスの侍女におとしめ、幽閉した。メアリーは父との面会を禁止され、監視役には暴力も振るわれていたという。さらにヘンリー8世がイギリス国教会を創設したことで彼女の心の拠り所であったイングランドのカトリック教会は崩壊した。1536年にアンがヘンリー8世の不興を買って処刑されるとジェーン・シーモアが3人目の王妃となった。彼女はアンとは対照的に義理の娘のメアリーにも優しく接した。ジェーンの取り計らいもあり、メアリーは絶縁状態だったヘンリー8世と和解を果たした。

即位[編集]

1547年、ヘンリー8世の崩御により生存していた唯一の男子エドワードがエドワード6世として即位したが、在位6年で崩御した。本来なら長女のメアリーが王位を継承する筈だったが、有力貴族のノーサンバラント侯爵ジョン・ダドリーがメアリーが一時期庶子の身分に落とされていたことを理由にメアリーの正当性を否定。ジェーン・グレイを祭り上げて女王に戴冠させた。しかし、民衆はメアリーを支持し、軍隊を味方につけた彼女はジェーンの兵を破りロンドンに入城した。かくしてジェーンは僅か9日間で王位を失い、メアリーが1553年にメアリー1世として即位した。なお、ダドリー一族とジェーンは処刑された。

暴君化[編集]

王座についたメアリーは父の宗教改革を取り消し、イングランドをカトリック教会に復帰させた。メアリーは即位前、復帰後もプロテスタントの信仰の自由を保障すると約束していたが、このタイミングでプロテスタントの聖職者を大量に火刑に処した。さらにメアリーはカトリックの強国スペインフェリペ王子と結婚。メアリーは11歳年下のフェリペに惚れ込んでいたが、対するフェリペは長年の苦労ですっかり老けたメアリーに失望し、愛情を向けることは無かった。特にメアリーの想像妊娠が発覚してからはスペインに戻り、イングランドに滞在することも少なくなった。1558年、フェリペはメアリーにフランスとの戦争に加勢するよう要請。メアリーは議会の猛反対にも耳を貸さずこれを承諾した。結果イングランド軍はフランスに大敗し、百年戦争敗北後唯一残っていた大陸領土のカレーを喪失した。市民はメアリーに失望し、妹のエリザベスの人気が高まっていった。これを知ったメアリーはヒステリーを起こし、エリザベスに暴言を吐いて当たり散らかした。さらに異端審問を強化しますます多くのプロテスタントを処刑した。1558年11月17日、メアリーは卵巣がんにより崩御した。享年42。彼女は今際の際で憎んでいた妹エリザベスを後継者に指名した。彼女の命日は以後200年にわたって祝日として言われたという[2]

注釈[編集]

  1. 後にヘンリー8世の6人目の王妃キャサリン・パーの働きかけで復活した。
  2. ジョンエドワード2世ですらこの扱いは受けていない。

関連項目[編集]