ジョン (イングランド王)
ジョン(英:John)、あるいはジャン(仏:Jean)とは、イングランド・プランタジネット朝の3代目国王。イギリス史上最も嫌われている国王で、渾名は失地王または欠地王。
生涯[編集]
即位まで[編集]
1166年12月24日、イングランド王ヘンリー2世と王妃アリエノール・ダキテーヌの末子として誕生。兄の若王ヘンリー、リチャード、ジェフリーとは対照的に父王に溺愛されて育った。ヘンリー2世は愛するジョンになんとか領地を与えようと、兄のリチャードにジョンへ領土を一部譲るよう要求し、親子喧嘩に発展した。しかし、ジョンはあろうことか父を裏切って兄に味方した。これを知ったヘンリー2世は1189年、失意の中で崩御した。
兄がリチャード1世として即位すると、ジョンは王位を簒奪する野望を抱き始めた。リチャードが十字軍で遠征でイングランドを留守にいている隙をつき、仏王フィリップ2世と結託して反乱を起こした。しかし人望が全くなかったため諸侯の支持を得られず、兄がサラディンと講和してイングランドに戻ってくると謝り倒して許しを得た。
治世[編集]
1199年にリチャードが矢傷が元で崩御。ヘンリー2世の三男ジョフロワの遺児アーサーとジョンの間で跡目争いが起こるが、フィリップ2世の傀儡同然のアーサーを嫌ったリチャードとアリエノールがジョンを支持したためジョンがイングランド王に即位した。元々、プランタジュネ家はフランス発祥であったため、イングランドに加えてフランスの西半分も領地で、むしろフランス側が本国であった。
ジョンは女関係もだらしなく、1200年、フランス貴族と婚約していた12歳の少女イザベラ・オブ・アングレームを略奪したためフィリップ2世との戦争に発展。ジョンには軍才が皆無で大敗し、ブルターニュ、アンジュー、ノルマンディーと大陸に持っていた領土の大半を喪失した。さらに1203年には甥のアーサーを捕らえて殺害(疑惑)した。カンタベリー大司教の叙任権を巡ってローマ教会とも対立し、1209年に教皇インノケンティウス3世に破門された。慌てたジョンはイングランドを教皇に献上することで許してもらった。
1214年、なんとか建て直しに成功したジョンは神聖ローマ帝国のオットー4世と組んでフランスに再度侵攻したが、王太子ルイに大敗し逃げ帰った。こうした度重なる失政と戦争のための重税に怒った貴族が反乱を起こし、1215年、王権を制限する歴史的文書マグナ・カルタへの調印を余儀なくされる。しかしインノケンティウス3世を味方につけるとマグナ・カルタを無視して圧政を敷くようになり、諸侯との内戦に突入。その最中の1216年10月19日に桃の食べすぎで体調を崩し崩御した。享年49。イザベラとの長男ヘンリー3世が次の国王に即位し、内戦は終結した。