フランソワ1世 (フランス王)
フランソワ1世(仏:François Ier)とは、フランス・ヴァロワ朝9代目の国王。渾名は騎士王。
即位まで[編集]
1494年9月12日に生まれる。父はシャルル5世の曾孫であるアングレーム伯シャルル、母はサヴォワ伯の娘ルイーズ・ド・サヴォワ。1496年に父が死去し、1歳でアングレーム伯の地位を継いだ。1498年にフランス王シャルル8世が崩御し、男子のいないルイ12世が即位すると、サリカ法に基づきフランソワが王位継承者に指名された。1514年にルイ12世の娘アンヌと結婚し、1515年には彼の崩御によって新フランス国王に戴冠された。なお、ルイ12世は野心的なフランソワを嫌っていたという。
イタリア戦争[編集]
フランソワ1世の治世下は、1494年にシャルル8世が始めたイタリア戦争が最も白熱した時期と言える。1519年、神聖ローマ帝国の皇帝マクシミリアン1世が崩御すると、フランソワは次期皇帝選挙の候補者として立候補したが、スペイン王カルロス1世に敗北した。これはフランスがドイツとスペインのハプスブルク家に挟まれる事を意味していた。
フランソワ1世は王座に就くと直ちにイタリアへ親征し、ローマ教皇と同盟を結んだ。1521年からはイタリアの支配権を巡ってカール5世と激しい争いを繰り広げた。1525年のパヴィアの戦いで大敗しフランソワは捕虜となってしまうが、解放されるとすぐに講和条約を破棄して戦闘を再開した。カール5世を下すためにイングランド王ヘンリー8世、ルター派諸侯、挙げ句の果てにはイスラム教を奉じるオスマン帝国のスレイマン1世と同盟を組んでハプスブルク家へ嫌がらせを繰り返した。結局カール5世相手に決定的な勝利を収めることはできず、1544年にクレピーの和約でイタリア支配を放棄させられた。しかし、ハプスブルク家の勢力拡大を止めることに成功したのは確かである。
フランス・ルネサンス[編集]
先述のイメージから脳筋に思われがちなフランソワだが、フランス国王の中でも稀に見る芸術好きな王だった。レオナルド・ダ・ヴィンチを宮廷に招いて保護したことでも有名である。彼の治世下でフランスの文化芸術が花開き、フランス・ルネサンスが育まれた。
崩御[編集]
中央集権化を進め、フランスの国際的地位を高めたフランソワは1547年3月31日に崩御した。享年52。次男のアンリがアンリ2世として後を継いだ。フランス対ハプスブルク家の対立構図は18世紀半ばまで続くこととなる。