ハルウララ

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
ハルウララ
欧字表記 Haru Urara
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1996年(平成8年)2月27日
死没 2025年(令和7年)9月9日
ニッポーテイオー
ヒロイン
母の父 ラッキーソブリン
生国 日本国旗.png日本北海道三石町
生産 信田牧場
馬主 (有)信田牧場
→横山貴男
→(株)エムエイオフィス(以上現役時代)
安西美穂子→ハルウララの会(引退後)
調教師 宗石大高知
競走成績
生涯成績 113戦0勝
獲得賞金 112万9千円

ハルウララは、日本競走馬である。生涯成績113戦0勝と負け続けて人気を得、「負け組の星」と呼ばれてブームを巻き起こし、高知競馬場を救った。

生涯[編集]

北海道三石町(現・新ひだか町)の信田牧場で誕生。セリに出しても買い手がつかず、牧場が馬主となって高知競馬場の宗石大厩舎へ預託した。

1998年(平成10年)11月17日にデビューするも5頭立ての5着に敗れ、その後も1勝も挙げられない状態が続いた。それでも年間20回ほど出走して当時1出走につき6万円が支給された出走手当で預託料を稼いでいた。

2003年(平成15年)夏、7歳になったハルウララに突如注目が集まる。廃止の危機に瀕していた高知競馬ではとにかく人目を引くことをしたいと、ハルウララに関する資料をマスコミ各社に送付した。これがマスコミに取り上げられて全国的な知名度・人気を獲得した。一方、生産者の信田牧場は、生産者の立場からハルウララブームについて批判的なコメントを残している。
同年12月14日、ハルウララの100出走目となるレースが実施。この時は5000人を超える観客が高知競馬場を訪れ、この時も勝てなかった。レース後にはセレモニーも執り行われた。

2004年(平成16年)3月22日、中央競馬のトップジョッキーである武豊がハルウララに騎乗した。当日は1万3千人が入場し、ハルウララの出走レースの馬券売上額は5億1163万円、1日の総売上額8億6904万円といずれも高知競馬史上最高額を更新した。

最終的に113戦0勝(2着5回・3着7回)の成績で引退。なお引退前に馬主と調教師の間ですれ違いがあったという。

2009年(平成21年)、ハルウララは繁殖牝馬となるため北海道の牧場に移送された。ディープインパクトステイゴールドとの交配が計画されたが、高額な種付け料のために断念されたという。その後数年に渡って行方不明となるが、2012年(平成24年)、ハルウララは千葉県マーサファームにいることが明らかになる。マーサファームがファンクラブの春うららの会を設立すると、現役時代を知るファンから入会希望・寄付が殺到した。
その後もファンに支えられ、2025年(令和7年)9月9日、疝痛により29歳でこの世を去った。父・ニッポーテイオーも33歳まで生きた長寿馬であった。

関連項目[編集]