オランダ領東インド

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オランダ領東インド(オランダりょうひがしインド、オランダ語: Nederlandsch-Indië)は、東南アジアに位置したオランダ植民地である。現在のインドネシアの領域とほぼ一致する。

歴史[編集]

オランダ領東インドの歴史は、17世紀初頭に設立されたオランダ東インド会社VOC)の活動に端を発する。

オランダ東インド会社時代[編集]

1602年、オランダは東方貿易を効率的に行うため、数社の貿易会社を統合してオランダ東インド会社を設立した。東インド会社は、アジア各地に拠点を設け、特に香辛料貿易において大きな成功を収めた。現在のインドネシア地域では、1619年ジャワ島ジャカルタを占領し、バタヴィアと改称して拠点とした。これにより、香辛料の主要生産地であるモルッカ諸島バンテンなどを支配下に置いた。

東インド会社は、単なる貿易会社に留まらず、広大な領域において行政権、軍事権、条約締結権などの主権を行使する事実上の国家機関であった。しかし、18世紀後半になると、会社の不正や腐敗、イギリスとの競争激化、さらにフランス革命戦争の影響などにより経営が悪化。1799年末に解散し、そのすべての資産と負債はバタヴィア共和国(後にネーデルラント連合王国)によって引き継がれた。これにより、東インド会社が支配していた地域は、オランダ政府の直接統治下に入ることになった。

オランダ政府による直接統治時代[編集]

1800年以降、オランダ政府による直接統治が開始された。この時期、ナポレオン戦争の影響でオランダ本国がフランスの支配下にあったため、一時的にイギリスに占領された時期(1811年 - 1816年)もあったが、ウィーン議定書によってオランダに返還された。

19世紀に入ると、オランダは植民地支配を強化し、その領域を現在のインドネシア全域に拡大していった。特にジャワ戦争1825年 - 1830年)やアチェ戦争1873年 - 1904年)などの激しい抵抗運動を鎮圧し、各地に駐屯軍を派遣して支配体制を確立した。

1830年からは、植民地の財政を改善するため、強制栽培制度(Cultuurstelsel)が導入された。これは、住民にコーヒー、砂糖、藍などの換金作物の栽培を強制し、それを低価格で買い上げてヨーロッパに輸出し、莫大な利益を得る制度であった。この制度はオランダ本国に富をもたらしたが、現地住民には飢饉や貧困をもたらし、大きな社会問題となった。

19世紀後半になると、自由主義の影響がオランダ本国で高まり、強制栽培制度に対する批判が強まった。1870年には農業法が施行され、強制栽培制度は段階的に廃止され、自由な経済活動が奨励されるようになった。これにより、民間資本が東インドに流入し、ゴム、タバコ、石油などの新たな産業が発展した。

民族主義の高まりと第二次世界大戦[編集]

20世紀に入ると、エチカル・ポリシー(Ethical Policy)と呼ばれる植民地政策が導入された。これは、植民地の発展のために教育、医療、灌漑などのインフラ整備を進めるというものであった。しかし、これはオランダの植民地支配を正当化するための側面も持ち合わせていた。

一方で、第一次世界大戦後には、民族自決の動きが世界的に高まり、オランダ領東インドでも独立運動が活発化した。スカルノハッタといった指導者たちが登場し、インドネシア国民党(PNI)などの政治組織が結成され、独立への機運が高まった。

1942年第二次世界大戦中に大日本帝国がオランダ領東インドに侵攻し、全域を占領した(蘭印作戦)。日本軍の占領下で、オランダによる支配は一時的に終わりを告げた。日本軍は当初、アジア解放を掲げていたが、実際には資源収奪や労働力徴発(ロームシャ)などを行い、現地住民に多大な苦難を与えた。しかし、日本軍がオランダ人を排除し、インドネシア人に軍事訓練を施したことは、結果的に戦後の独立運動に大きな影響を与えた。

独立への道[編集]

1945年8月17日、日本がポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦が終結すると、スカルノハッタインドネシア独立宣言を行った。しかし、オランダはインドネシアの独立を認めず、再植民地化を目指して軍事行動を開始した(インドネシア独立戦争)。

国際社会の仲介もあり、1949年ハーグ円卓会議が開催された。この会議の結果、オランダは1949年12月27日インドネシア共和国連邦の主権を承認し、約350年にわたる植民地支配に終止符が打たれた。ただし、西イリアン(現パプア州)は一時的にオランダの支配下に留まったが、1963年にインドネシアに併合された。

経済[編集]

オランダ領東インドは、豊富な天然資源に恵まれ、オランダ本国の経済を支える重要な存在であった。主要な輸出品には、香辛料コショウクローブナツメグなど)、コーヒー砂糖ゴムタバコ石油などがあった。

強制栽培制度の導入により、農産物の生産が強制され、オランダ本国に莫大な利益をもたらした。19世紀後半以降は、民間資本の参入により、プランテーション経営が拡大し、農業生産がさらに多様化した。また、スマトラ島などでは石油などの鉱物資源の開発も進んだ。

社会と文化[編集]

オランダ領東インドの社会は、オランダ人支配層、華人(中国系インドネシア人)、インドネシア人原住民という階層構造を持っていた。オランダ人は特権的な地位を享受し、政治・経済の中心を担った。華人は貿易や金融業で活躍し、原住民の多くは農民として生活していた。

文化的には、オランダ文化の影響を受けつつも、インドネシア固有の文化が継承された。ジャワ舞踊ガムラン音楽、バティック染めなどがその代表である。また、オランダ語が公用語であったが、現地ではマレー語を基盤とするインドネシア語が共通語として発展していった。

豆知識[編集]

  • オランダ領東インドのギルダー紙幣には、ジャワ島の美しい風景や伝統的な衣装をまとった人々が描かれていました。
  • 現在のインドネシアの国章である「ガルーダ・パンチャシラ」に描かれている鷲のガルーダは、ヒンドゥー教仏教に由来する神鳥です。
  • アチェ戦争」は、オランダが最も長い期間と費用を費やした植民地戦争として知られています。
  • オランダ領東インドで栽培されていたコーヒー豆「ジャワコーヒー」は、現在でも世界的に有名です。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 石井米雄桜井由躬雄『東南アジア現代史 I —タイ・ビルマ・インドネシア—』(山川出版社、世界現代史 6)、1977年。
  • 永積昭『オランダ東インド会社』(講談社学術文庫)、2000年。ISBN 4-06-159424-3
  • 池端雪浦編著『東南アジアを知る事典』(平凡社)、1999年。ISBN 4-582-12621-1