ナポレオン戦争
ナポレオン戦争(ナポレオンせんそう、英語: Napoleonic Wars)は、1803年から1815年にかけて、フランス帝国のナポレオン・ボナパルトと、それに対抗するヨーロッパ諸国との間で行われた一連の戦争である。広義には、フランス革命戦争の第二局面と位置づけられることもある。
ナポレオン戦争は、その規模と破壊力において、当時のヨーロッパに甚大な影響を与えた。戦争は、フランス革命によってもたらされた共和主義、ナショナリズム、自由主義といった思想をヨーロッパ中に広め、旧来の絶対王政体制に揺さぶりをかけた。また、軍事技術や戦略、戦術においても大きな変革をもたらし、その後の近代戦の基礎を築いたとされる。
概要[編集]
ナポレオン戦争は、フランス革命の混乱の中から台頭したナポレオン・ボナパルトが、フランス第一共和政の事実上の支配者となり、フランス第一帝政を樹立する過程で、ヨーロッパ諸国との間で繰り広げられた。ナポレオンは、大陸軍と呼ばれる強力な軍隊を率いて、多くの戦役で圧倒的な勝利を収め、一時はヨーロッパの大部分をその支配下に置いた。
しかし、イギリスの徹底的な抵抗と、ロシア遠征の失敗が転機となり、ナポレオンの勢力は衰退する。最終的には、対仏大同盟諸国によってパリが占領され、ナポレオンは退位。その後、エルバ島への流刑、百日天下を経て、ワーテルローの戦いで最終的な敗北を喫し、セントヘレナ島へと流された。
背景[編集]
ナポレオン戦争の直接的な背景には、フランス革命後のヨーロッパ情勢がある。革命によってブルボン朝が打倒され、ルイ16世が処刑されると、ヨーロッパの君主国はフランスの革命思想が自国に波及することを恐れ、フランスを敵視した。
1792年に始まったフランス革命戦争は、第一回対仏大同盟、第二回対仏大同盟と、ヨーロッパ諸国が幾度となく同盟を結んでフランスに対抗した。この中で、軍事的な才能を発揮し頭角を現したのがナポレオン・ボナパルトであった。彼は、イタリア戦役やエジプト・シリア戦役で輝かしい勝利を収め、名声を確立した。
1799年、ナポレオンはブリュメールのクーデターを起こして総裁政府を打倒し、執政政府を樹立。自らが第一執政となり、フランスの実権を掌握した。この時点から、ナポレオンの個人的な野心と、フランスの国益が深く結びつき、ナポレオン戦争へと繋がっていく。
戦争の経過[編集]
ナポレオン戦争は、大きくいくつかの局面に分けられる。
第三次対仏大同盟とアウステルリッツの勝利[編集]
1803年にイギリスとフランスの間でアミアンの和約が破棄され、戦争が再開された。1805年、イギリス、オーストリア帝国、ロシア帝国、スウェーデンが第三次対仏大同盟を結成し、フランスに対抗した。
しかし、ナポレオンはウルムの戦いでオーストリア軍を破り、続くアウステルリッツの戦いでは、オーストリア皇帝フランツ2世とロシア皇帝アレクサンドル1世が率いる露墺連合軍に対し、会戦史上稀に見る圧倒的な勝利を収めた。この勝利により、第三次対仏大同盟は崩壊し、神聖ローマ帝国は解体され、ライン同盟が結成された。
第四次対仏大同盟とイエナ・アウエルシュタットの勝利[編集]
1806年、プロイセン王国が第四次対仏大同盟に加わり、フランスと対立した。しかし、ナポレオンはイエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセン軍を壊滅させ、ベルリンを占領した。その後、ポーランドへと進軍し、フリートラントの戦いでロシア軍を破った。
この結果、ティルジットの和約が結ばれ、プロイセンは大幅な領土を失い、ロシアはフランスと同盟を結び、大陸封鎖令に参加することになった。これにより、ナポレオンはヨーロッパ大陸における覇権を確立した。
半島戦争とオーストリアの再起[編集]
1807年、ナポレオンはイベリア半島に介入し、スペインとポルトガルを支配下に置こうとした。これに対し、スペイン民衆が蜂起し、イギリスの支援を受けて半島戦争が勃発した。この戦争は、ゲリラ戦の様相を呈し、フランス軍は多大な損害を被った。
1809年、オーストリアが再びフランスに宣戦布告し、第五次対仏大同盟が結成された。しかし、ヴァグラムの戦いでナポレオンは再びオーストリア軍を破り、シェーンブルン条約を締結させた。
ロシア遠征と大陸軍の壊滅[編集]
1812年、ロシア帝国が大陸封鎖令を破棄したことを理由に、ナポレオンは大規模なロシア遠征を開始した。数十万人規模の大陸軍を率いてロシア奥深くへと侵攻したが、ロシア軍の焦土作戦と厳しい冬の気候、そして補給線の問題により、大陸軍は壊滅的な打撃を受けた。
ボロジノの戦いで勝利を収め、モスクワを占領したものの、ロシア軍の主力を捕捉できず、さらにモスクワの大火によって補給に支障をきたし、撤退を余儀なくされた。この撤退は、ナポレオンの不敗神話を打ち破る決定的な転換点となった。
解放戦争とナポレオンの退位[編集]
ロシア遠征の失敗を受け、ヨーロッパ諸国は第六次対仏大同盟を結成し、フランスへの反攻を開始した。1813年、ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)で、ナポレオンは連合軍に大敗を喫した。
連合軍はフランス領内へと侵攻し、1814年3月にはパリを占領した。これにより、ナポレオンはフォンテーヌブロー条約により退位を余儀なくされ、エルバ島へと流された。ブルボン朝が復活し、ルイ18世が即位した。
百日天下とワーテルローの戦い[編集]
1815年、ナポレオンはエルバ島を脱出し、フランスに帰還した。彼は再び皇帝に即位し、百日天下と呼ばれる期間、政権を掌握した。これに対し、ヨーロッパ諸国は第七次対仏大同盟を結成し、ナポレオンを打倒しようとした。
最終的に、1815年6月18日、ワーテルローの戦いでウェリントン公爵率いるイギリス・オランダ連合軍とブリュッヘル率いるプロイセン軍の連合軍に大敗を喫した。ナポレオンは再び退位し、遠く大西洋のセントヘレナ島へと流され、1821年に同地で死去した。
影響[編集]
ナポレオン戦争は、ヨーロッパに多大な影響を与えた。
- 政治的影響:ウィーン体制が確立され、旧来の君主制が一時的に復活したものの、フランス革命とナポレオン戦争によって広まったナショナリズム、自由主義といった思想は、その後のヨーロッパの政治に大きな影響を与え、1848年革命などの革命運動へと繋がっていく。ドイツ統一やイタリア統一の動きも、ナショナリズムの高揚と無縁ではなかった。
- 社会的影響:封建制の解体や農奴解放が進み、市民社会の形成が促進された。徴兵制の導入は、国民意識を高める一方で、戦争の規模を拡大させる要因ともなった。
- 軍事的影響:大規模な国民軍の編成、総力戦の概念、師団・軍団制の導入、砲兵の運用など、近代的な軍事システムが確立された。ナポレオンの戦略・戦術は、後世の軍事学に大きな影響を与えた。
- 経済的影響:イギリスは海洋国家としての優位性を確立し、産業革命を推進した。大陸封鎖令は、各国の経済に大きな影響を与え、特にフランスでは産業の発展を促した側面もあったが、一方で貿易の停滞を招いた。
- 文化的影響:ナポレオンの英雄像は、文学や芸術に多大な影響を与えた。また、戦争を通じて様々な文化交流が生まれ、ヨーロッパ各地にフランスの文化が伝播した。
豆知識[編集]
- ナポレオン戦争中、イギリス海軍はネルソン提督の指揮の下、トラファルガーの海戦でフランス・スペイン連合艦隊を破り、制海権を完全に掌握した。これにより、ナポレオンのイギリス上陸作戦は完全に頓挫した。
- ロシア遠征の際、ナポレオンは「私の軍隊は太陽と進む」と言ったが、実際にはロシアの冬が彼にとって最大の敵となった。
- ナポレオンは、ヨーロッパの地図を何度も書き換え、多くの傀儡国家を樹立した。これにより、ヨーロッパの国境線は大きく変動した。
関連項目[編集]
参考書籍[編集]
- 長谷川輝夫『ナポレオン』講談社現代新書、2019年。ISBN 978-4-06-516104-5。
- 松村赳、池上俊一編『ナポレオン事典』新潮社、2011年。ISBN 978-4-10-600371-1。
- 大塚拓雄『ナポレオン戦争史』原書房、2007年。ISBN 978-4-562-04093-4。