フランス革命戦争
フランス革命戦争(フランスかくめいせんそう、フランス語: Guerres de la Révolution française、英語: French Revolutionary Wars)は、1792年から1802年にかけて、フランスと、様々なヨーロッパ列強の同盟(対仏大同盟)との間で戦われた一連の大規模な軍事紛争である。これらの戦争はフランス革命によって引き起こされ、革命政府が自国の存続と革命思想の拡大を目指す中で勃発した。
これらの戦争は、フランスの歴史、ヨーロッパの政治地図、そして軍事戦略に多大な影響を与え、その後のナポレオン戦争へと繋がった。
概要[編集]
フランス革命戦争は、大きく分けて二つの期間に分類される。
- 第一次対仏大同盟(1792年 - 1797年): オーストリアとプロイセンがフランス革命への介入を試みたことから始まり、最終的にフランスが優位に立ち、イタリア北部やラインラントを支配下に置いた。
- 第二次対仏大同盟(1798年 - 1802年): イギリス、オーストリア、ロシアなどがフランスに対抗するために形成されたが、フランス軍の勝利に終わり、特にナポレオン・ボナパルトの台頭を決定づけた。
これらの戦争を通じて、フランスは革命の理想を掲げながらも、実質的にはヨーロッパにおける覇権を確立していった。
背景[編集]
フランス革命は、1789年に始まり、ブルボン朝の絶対王政を打倒した。しかし、革命の急進化は、ヨーロッパの君主国に警戒感を抱かせた。彼らは、革命思想が自国に波及することを恐れ、フランス国内の王党派を支援する動きを見せた。
特にオーストリア帝国とプロイセン王国は、フランスの国王ルイ16世の身柄を案じ、ピルニッツ宣言(1791年)を発して、ルイ16世の安全が脅かされるようならば、フランスへ介入する用意があると表明した。これは、フランス革命政府にとって宣戦布告と受け取られた。
第一次対仏大同盟(1792年 - 1797年)[編集]
開戦と初期のフランスの苦戦[編集]
1792年4月20日、フランス立法議会は、オーストリアに対して宣戦布告した。しかし、革命直後のフランス軍は、旧王政下の将校の多くが国外に逃亡していたため、組織も規律も混乱しており、当初は連戦連敗を喫した。プロイセン軍とオーストリア軍はフランス国境を越え、パリに迫る勢いを見せた。
しかし、1792年9月20日のヴァルミーの戦いで、フランスの義勇兵と正規兵からなる革命軍がプロイセン軍の進撃を阻止したことは、革命の士気を大いに高めた。この戦いは、フランス革命の転換点の一つとされている。
国民総動員とフランスの反攻[編集]
1793年、フランス国内では恐怖政治が始まり、ジャコバン派が権力を掌握した。この時期、政府は「国民総動員」を布告し、全ての国民を戦争に動員する体制を敷いた。これにより、フランスは大規模な軍隊を編成し、軍事力を飛躍的に増強させた。
フランス軍は、ジャン=バティスト・ジュールダンやラザール・オッシュといった新世代の将軍たちの活躍により、反攻に転じた。フリュールスの戦い(1794年)ではオーストリア軍を破り、ネーデルラント(現在のベルギー)を占領した。
ナポレオンの台頭とイタリア戦役[編集]
1796年、若き将軍ナポレオン・ボナパルトがイタリア方面軍司令官に任命された。彼はイタリア戦役において、オーストリア軍とサルデーニャ軍を次々と撃破し、その軍事的才能を遺憾なく発揮した。ナポレオンの勝利は、フランスに巨額の賠償金と領土をもたらし、第一回対仏大同盟の崩壊を決定づけた。
1797年10月17日、フランスとオーストリアの間でカンポ・フォルミオ条約が締結され、第一回対仏大同盟は終結した。この条約により、オーストリアは南ネーデルラント(現在のベルギー)とイタリア北部の領土をフランスに割譲し、その代わりにヴェネツィア共和国の領土を得た。
第二次対仏大同盟(1798年 - 1802年)[編集]
エジプト遠征とナポレオンの不在[編集]
カンポ・フォルミオ条約によって大陸での敵を一時的に失ったフランスは、最大の敵であるイギリスへの直接侵攻を計画した。しかし、フランス海軍がイギリス海軍に比べて劣勢であったため、ナポレオンはイギリスのインド貿易を妨害するためにエジプト遠征を提案した。
1798年、ナポレオンはエジプトへ遠征したが、ナイルの海戦でホレーショ・ネルソン率いるイギリス海軍に敗北し、フランス艦隊は壊滅した。これにより、ナポレオンはエジプトで孤立することになった。
対仏大同盟の再結成とフランスの劣勢[編集]
ナポレオンのエジプト遠征中の1798年から1799年にかけて、イギリスの主導で第二次対仏大同盟が結成された。これにはイギリスの他に、オーストリア、ロシア帝国、オスマン帝国、ナポリ王国、ポルトガル王国などが参加した。
ナポレオン不在のフランス軍は、イタリアやドイツ方面で劣勢に立たされ、占領地を次々と失った。特にロシアのアレクサンドル・スヴォーロフ将軍は、イタリアでフランス軍を圧倒した。
ナポレオンの帰還とクーデター[編集]
フランス本国の窮状を知ったナポレオンは、エジプトを脱出し、1799年10月にフランスに帰還した。そして、1799年11月9日のブリュメール18日のクーデターを起こし、総裁政府を打倒して統領政府を樹立した。ナポレオンは第一統領となり、フランスの政治と軍事の実権を掌握した。
フランスの反攻と和平[編集]
第一統領となったナポレオンは、直ちに軍の再編と反攻を開始した。1800年のマレンゴの戦いでオーストリア軍を破り、イタリアでのフランスの優位を回復した。また、ジャン・ヴィクトル・モロー将軍もホーエンリンデンの戦い(1800年)でオーストリア軍に大勝した。
これらの勝利により、オーストリアはフランスとの和平を余儀なくされ、1801年2月9日にリュネヴィル条約が締結された。これにより、第二次対仏大同盟からオーストリアが脱落した。
残るイギリスとの間では、1802年3月25日にアミアンの和約が締結された。これにより、フランス革命戦争は正式に終結した。
戦争の影響[編集]
フランス革命戦争は、ヨーロッパに多大な影響を与えた。
- フランスにおける革命の定着: 戦争の勝利は、フランス革命の成果を国際的に承認させることに繋がった。
- 国民国家の台頭: 国民総動員や徴兵制の導入は、国民意識を高め、国民国家の形成を促進した。
- 軍事戦略の変化: 大規模な徴兵制、軍団編成、迅速な機動を特徴とする新しい戦争形態が確立され、その後の軍事戦略に大きな影響を与えた。
- ナポレオンの台頭: ナポレオンは革命戦争を通じてその才能を発揮し、フランスの最高権力者となり、その後のナポレオン戦争へと突入していく。
- ヨーロッパの政治地図の変容: 占領地や衛星国の設置により、ヨーロッパの勢力均衡は大きく変化した。神聖ローマ帝国の解体(1806年)も、革命戦争の影響下で進行した。
- 自由主義とナショナリズムの拡散: フランス革命の理念は、ヨーロッパ各地に広がり、その後の自由主義運動やナショナリズムの興隆に影響を与えた。
豆知識[編集]
- フランス革命戦争中、フランスの国歌である「ラ・マルセイエーズ」が生まれたのは、オーストリアに対する宣戦布告後のことである。当初は「ライン軍歌」という名称であった。
- ヴァルミーの戦いは、大砲の射程圏内で敵軍が互いに攻撃しあうという、それまでの会戦とは異なる様相を呈した。これは、近代戦の萌芽ともいえる。
- ナポレオンは、エジプト遠征の際に学者や技術者を同行させ、エジプトの文化や歴史に関する調査を行わせた。この成果は、後に「エジプト誌」としてまとめられ、エジプト学の発展に貢献した。
- フランス革命戦争中、イギリスは海上封鎖を敷き、フランスの経済に打撃を与えようとした。この海上覇権を巡る争いは、その後のナポレオン戦争でも重要な要素となる。
関連項目[編集]
参考文献[編集]
- 芝健介『フランス革命200年』(岩波新書、1989年)
- 大野フランス史研究会編『フランス革命事典』(丸善、1998年)
- 城戸毅『フランス革命―歴史と記憶の継承』(山川出版社、2010年)