エリザヴェータ (ロシア皇帝)
エリザヴェータ(露:Елизаве́та)とは、ロマノフ朝・ロシア帝国の6代目皇帝。
生涯[編集]
即位まで[編集]
1709年12月29日、ピョートル1世(大帝)とエカチェリーナ1世の娘として生まれる。父帝に似た長身と美貌の持ち主だった。そんな彼女にはフランス王ルイ15世との縁談が持ち上がるが、フランス側が拒否し破談となった。ロシアを辺境の未開の国と見下していたからか、あるいはロマノフ家が全体的に病弱だったからと思われる[要出典]。なお、結局ルイ15世はポーランドの没落王族の娘と結婚している。
ピョートル大帝の娘で美しいエリザヴェータは国民、特に大帝を崇拝する軍隊からはカリスマ的な人気を誇った。このため当時の女帝アンナは彼女を警戒し、厳しい監視下に置いて排除を企んだ。しかし、用心深いエリザヴェータは決してボロを出すことはなかったため、アンナは最終的に彼女を粛清することは出来なかった。
治世[編集]
1740年にアンナが崩御し、幼年のイヴァン6世が即位した。翌1741年、エリザヴェータは軍隊を味方につけてクーデタを起こし、イヴァン6世を廃位・監禁。帝位を簒奪した。
エリザヴェータは国民から絶大な支持を得たが政治への意欲は早々に失い、周りを愛人で囲んで自堕落な生活を送った。一方、内政は有能な家臣団の手で安定し、財政の健全化や経済成長を実現した。外交ではフィンランド方面で領土を拡大したほか、七年戦争ではオーストリア大公のマリア・テレジア及びフランス王ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人と同盟を結び(3枚のペチコート作戦)、プロイセンのフリードリヒ大王を追い詰めた。
エリザヴェータには子供が居なかったため、甥のドイツ貴族カール・ペーター・ウルリヒ(ピョートル3世)をロシアに呼び戻し、後継者に据えた。1762年1月5日に崩御。享年52。
逸話[編集]
- 即位前にエリザヴェータが近衛兵と恋に落ちた際、アンナは彼の舌を切り落としシベリアに追放したという。
- 女性嫌悪主義者のフリードリヒ2世はエリザヴェータを中傷しており、これが七年戦争参戦の原因の一つとなったとされる。
- 宮廷で自分以外の女性がピンク色の下着を身につけることを禁止した。