ピョートル3世

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ピョートル3世(露:Пётр III)とは、ロマノフ朝ロシア帝国の7代目皇帝。

生涯[編集]

1728年2月21日神聖ローマ帝国のキールで生まれる。父はホルシュタイン=ゴッドルプ公カール=フリードリヒ、母はピョートル1世の長女アンナ。ドイツ名はカール・ペーター・ウルリヒ。1741年、叔母のエリザヴェータがロシア皇帝に即位。彼女には子供が居なかったため、カールをロシアに呼び戻し後継者に指名した。この際カールはピョートルに改名した。1745年、エリザヴェータの指示でドイツ貴族の娘エカチェリーナを嫁に迎えたものの、夫婦仲はあまり良くなかった。それでも1754年には長男のパーヴェルが生まれた。1762年1月、エリザヴェータが崩御したことで帝位を継いだ。当時のロシアは七年戦争プロイセン軍を崩壊寸前まで追い詰めていたが、ピョートルはプロイセン王フリードリヒ2世を尊敬していたことから戦争を中止し兵を引き上げた。その上ロシア人を嫌い、軍服をプロイセン式に改めようと試みた。当然これに軍隊は激怒し、同7月9日、エカチェリーナ皇后率いる近衛隊のクーデタにより廃位された。彼女がエカチェリーナ2世として新皇帝に即位し、その9日後の7月18日にピョートルは殺害された。享年34。死因はと発表され、外交官達は苦笑を抑えきれなかったという。

業績[編集]

上記の経緯から無能な皇帝と思われがちなピョートル3世だが、実際は農奴の待遇改善、宗教寛容政策、義務教育の導入、言論規制の緩和など開明的な政策を取っていたことも分かっている。そのためピョートル3世が殺された際多くの市民は彼の死を悼み、後にプガチョフの乱を起こすプガチョフのようにピョートル3世を僭称する者もいた。

なお、彼についての醜聞の一つに成人後も兵隊の玩具で遊んでいたというものがあるが、実際は軍事研究に勤しんでいたのをエカチェリーナ側に都合良く改竄されたものと思われる。

関連項目[編集]