エドワード4世

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エドワード4世(英:Edward IV)とは、イングランド・ヨーク朝の初代国王。

生涯[編集]

1442年4月28日、ヨーク公リチャード(エドワード3世の曾孫)と妃セシリー・ネヴィルの次男として生まれる。長男ヘンリーは夭折していたため、マーチ伯に叙されたエドワードが後継者となった。なお、セシリーはヨーク公が軍事遠征で留守にしている際にエドワードを産んだとされており、不義の子ではないかという疑惑が当初からあった。これは後に弟たちが王位を主張する根拠の一つとなった。1455年、父ヨーク公率いるヨーク派とヘンリー6世王妃マーガレット率いるランカスター派の間で薔薇戦争が勃発する。1460年、エドワードはノーサンプトンの戦いでランカスター軍を撃破してヘンリー6世を捕縛し、7月にロンドンに入城した。一方、同12月のウェイクフィールドの戦いで父ヨーク公と三男エドマンドが戦死した。これによりエドワードはヨーク公位を引き継ぐと同時に、1461年3月、ロンドン市民と議会の支持を受けてイングランド王に即位した。ヘンリー6世は廃位の上ロンドン塔に幽閉され、マーガレットは王子とフランスに亡命した。

しかし、エドワード4世は致命的なミスを犯した。1464年、ヨーク派の有力貴族ウォリック伯が進めていたフランスルイ11世の義妹との縁談を取り消し、ランカスター派の騎士の未亡人エリザベス・ウッドウィルと貴賤結婚したのである。エドワードは女癖が悪く、女性関係で度々問題を起こしていた。実際彼がロンドンの視察に出る際、市民は婦女子を家に隠していたという。この件でエドワードは支持者らの顰蹙を買った。特に面子を潰されたウォリック伯は憤慨し、1470年、エドワードの弟のクラレンス公ジョージ・マーガレットらと反乱を起こした。不意を突かれたエドワードは逃亡し、ヘンリー6世が再度王位に就いた。

しかし、1471年に入ると体制を建て直し、ランカスター派への反撃に転じた。4月にはクラレンス公を帰順させ、バーネットの戦いでウォリック伯を討ち取った。翌5月にテュークスベリーの戦いで弟のグロスター公リチャードがヘンリー6世の王子を捕らえて処刑し、ヘンリー6世もその後変死したことでランカスター家は断絶した。再び王座に返り咲いたエドワード4世は不審な動きを見せる弟クラレンス公を1478年に処刑し、フランスとの戦争に注力した。1483年4月9日に長年の乱淫が祟ったのか崩御。享年40。王位は長男のエドワード5世が継承したが、3ヶ月でグロスター公(→リチャード3世)が簒奪した。

関連項目[編集]