ヘンリー6世
ヘンリー6世(英:Henry VI)とは、イングランド・ランカスター朝の3代目国王。百年戦争に敗北し、薔薇戦争を引き起こした暗君である。
生涯[編集]
即位と結婚[編集]
1421年12月6日に生まれる。父はイングランド王ヘンリー5世、母はフランス王女キャサリン・オブ・ヴァロワ。1422年に父王と祖父のフランス王シャルル6世が相次いで崩御したため、トロワ条約に基づき生後1年も経たない彼が英仏両王に即位した。ヘンリー6世は敬虔で心優しい王であったが、気が弱く家臣の言いなりだった。当時のイングランドはジャンヌ・ダルクの活躍もあり百年戦争でフランス軍に連戦連敗していた。1445年、重臣のサマセット公とサフォーク公の働きかけでイングランドとフランスの間で講和条約が結ばれた。これによりヘンリー6世とシャルル7世の姪マーガレット・オブ・アンジューの結婚が決まるが、同時にイングランドはメーヌとアンジューを割譲するという過酷な条件を呑まされた。マーガレット妃は驚くほどの美貌の持ち主だったが、野心的で男勝りな性格でもあり、彼女が後の戦乱の一因となる。
王妃とヨーク公の対立[編集]
1446年、屈辱的講和が明らかになると民衆は怒りの声を上げ、貴族からも和平を結んだサマセット公やサフォーク公への非難が集中する。ところがマーガレットは彼らを擁護したばかりか、主戦派の筆頭グロスター公を反逆の容疑で逮捕し死に至らしめ、その盟友ヨーク公も宮廷から追放した。気弱なヘンリーは王妃の言いなりであった。1449年、フランスとの戦闘が再開されるとイングランド軍は1453年のカスティヨンの戦いで大敗、カレーを除く大陸領土を全て喪失し、1337年から続いた百年戦争はフランスの勝利で集結した。もともと気弱なヘンリーは敗北のショックと失望した貴族らの非難に耐えきれず精神崩壊を起こした。彼は周りの事が何も認識できず、マーガレットが王子エドワードを産んでも認知できなかったという。議会はアイルランドに追放されていたヨーク公を護国卿として呼び戻し、マーガレットは宮廷内での影響力を失った。しかし、1454年にヘンリーが正気を取り戻すと再びマーガレットが増長し、ヨーク公は追放された。
薔薇戦争勃発[編集]
政権を取り戻したマーガレットらランカスター派はヨーク公の逮捕を画策。この動きを察知したヨーク公率いるヨーク派は軍勢を集め始め、もはや両者の対立は修復不可能となった。1455年、セントオールバンズの地で遂に薔薇戦争の火蓋が切って下された。初戦はヨーク派の勝利に終わり、サマセット公は戦死、ヘンリー6世は捕虜となった。ヨーク公は王位簒奪を企んだが家臣の反対で思いとどまり、ヘンリーはロンドンで解放された。続く1460年7月のノーサンプトンの戦いでまたしても捕虜となるが、同年12月のウェイクフィールドの戦いでランカスター派が大勝、ヨーク公は討ち取られ、1461年2月にヘンリー6世は解放された。なお、この頃にはヘンリー6世は全てに対して無気力になっており、ひたすら神に祈っていたという。
最後[編集]
しかし、ヨーク公の次男のマーチ伯エドワードが破竹の勢いで進軍し、1461年3月にロンドンに入城、エドワード4世として即位した。ランカスター派はウェールズとイングランド北部で抵抗を続けたが、戦上手のエドワード4世には手も足も出ず1465年にヘンリー6世は捕縛され(3回目)、廃位のうえロンドン塔に幽閉された。マーガレットは王子エドワードとともにフランスに逃れ亡命生活を送っていたが、1469年にヨーク派の重鎮ウォリック伯を味方につけイングランドに上陸、エドワード4世を追い出した。これにより1470年にヘンリー6世はイングランド王に返り咲くが、体制を建て直したヨーク派の反撃でウォリック伯は戦死、マーガレットと王太子エドワードはテュークスベリーの戦いでエドワード4世の弟リチャードに敗れた。王太子はマーガレットの目の前で斬首され、ランカスター派は壊滅した。1471年4月、エドワード4世が復位してヘンリーは再度廃位され、ロンドン塔に監禁。同年5月21日に死去した。享年49。彼の頭蓋骨には強打された跡が残っており、エドワード4世に暗殺された可能性が高い。これによりランカスター朝は断絶し、ヨーク朝が始まる。