リチャード3世
リチャード3世(英:Richard III)とは、イングランド・ヨーク朝の3代目国王。
即位まで[編集]
1452年10月2日、ヨーク公リチャードとセシリー・ネヴィルの八男として生まれる。8歳の時に父がランカスター派とヨーク派の王位継承争いの薔薇戦争で戦死し、長兄エドワードの保護下で育った。1464年、ヨーク軍がランカスター軍を破り、エドワードがエドワード4世としてイングランド王に即位。リチャードもグロスター公の地位に叙された。1470年、重臣ウォリック伯が寝返ったことでエドワード4世は危機に陥るが、リチャードは兄を補佐し、翌年のテュークスベリーの戦いでランカスター派の首領マーガレット・オブ・アンジューを捕らえ、その王子を処刑する大戦果を挙げる。1483年にエドワード4世が崩御するとその息子であるエドワード5世が即位し、リチャードが摂政に就いた。
虚像[編集]
リチャードは脊椎側湾症を患っており、体も不自由で足を引きずりながら歩いていた。兄エドワード4世と対照的に醜い自分の容姿を恨み、常に呪詛のような言葉を吐き続けていた。摂政となったリチャードは自らが王座につく野望を抱き、わずか13歳の甥・エドワード5世とその弟ヨーク公をロンドン塔に幽閉して殺害した。挙句の果てには幼いエドワード4世の娘エリザベス・オブ・ヨークと結婚しようと企んだ。この暴挙に怒った正義のヒーローのヘンリー・テューダーが反乱を起こし、ボズワーズの戦いでリチャード3世を敗死させた。リチャードの遺体は服を脱がされ、両足を切断のうえ投棄された。享年32。勝者のヘンリーが新たなイングランド王ヘンリー7世となり、絶対王政の基盤を作り上げたのであった。
真実[編集]
上記がリチャード3世に対する従来の見方であったが、近年になってこれは覆されつつある。実際はエドワード4世の重婚発覚によりエドワード5世が王位継承権を失ったためやむを得ずリチャードが即位したのであり、甥から強引に王位を奪ったわけでは無い。事実、当時はリチャードの即位を肯定する意見が主流だった。また、エドワード5世とヨーク公をロンドン塔に幽閉して殺害したというのも誤りで、実際は外戚のウッドウィル家などから保護したのであり、幼い兄弟が争いに巻き込まれないよう密かにアイルランドへ逃したことも分かっている。彼に対する醜聞がここまで酷いのは、シェイクスピアを始めとするテューダー朝時代の作家たちがヘンリー7世の正統性を主張するために彼を必要以上に貶めたからとされている。
遺骨の発見[編集]
リチャード3世がボズワーズで戦死した後、埋葬場所は長い間行方不明であった。しかし2012年、レスター市中心部の駐車場の工事現場で偶然にも彼の遺骨が発見された。頭蓋骨には複数の外傷の跡があり、彼がボズワーズの戦いで自ら斧を持って戦ったという史書の記述と一致する。遺骨の調査の結果リチャード3世は碧眼で端正な容姿をしていた可能性が高いと判明した。また、DNA鑑定の実施により彼がプランタジネット朝の血を受け継いでいないことも分かり、少なくともヘンリー4世以降のイングランド王の王位の正統性に疑問が呈されることとなった。各種の調査終了後の2015年、彼の遺骨は「国王の礼をもって」改葬された。葬儀にはエリザベス2世も出席し、市民はヨーク家の白薔薇を持って葬列を見送ったという。