ヘンリー1世
ヘンリー1世(英:Henry I)とは、イングランド・ノルマン朝3代目の国王。渾名は碩学王。
生涯[編集]
即位まで[編集]
1068年ごろ、イングランド王ウィリアム1世と王妃マティルダ・オブ・フランダースの4男として生まれる。父王は将来彼を聖職者にするつもりだったのか、ヘンリーは当時の王族としては珍しく自由七科の教育を受け、ラテン語を話すことができた。長男ロバートとは仲が悪かった一方三男ウィリアムとは仲が良く、10歳ごろの時ウィリアムと一緒にロバートに汚物をぶっかけてからかったこともあったという。
1087年に父ウィリアム1世の崩御によりロバートがノルマンディーを、ウィリアムがイングランドを相続しウィリアム2世に即位した。ヘンリーには継ぐ土地が無かったためロベールに銀を払うことでコタンタン半島の統治権を獲得したが、1091年にロバートとウィリアムの争いに巻き込まれる形でその土地も失った。
イングランド王[編集]
1100年8月2日、ウィリアム2世はヘンリー含む貴族たちと森で狩猟を楽しんでいた。しかし、不幸にも従者の1人ウォルター・ティレルがウィリアムを獣と勘違いし射殺してしまう。これを知ったヘンリーはウィンチェスター城に直行し王家の財産を抑えた。8月5日、ヘンリーは戴冠式を行いイングランド王ヘンリー1世として即位した。これを知った兄ロバートは1101年に十字軍から帰国すると自身の王位を主張し反乱を起こすが、既に貴族を味方につけていたヘンリーに敗れ幽閉された。これにより彼の所領のノルマンディーもヘンリーの支配下に入った。ヘンリーは兄ウィリアム2世の悪政を覆して教会や貴族との融和を図り、フランス王ルイ6世との戦争も優位に進めた。
1100年、スコットランド王女マティルダと結婚。彼女はアルフレッド大王の血を引いており、ノルマン・コンクエスト以来対立関係にあったノルマン人とアングロ・サクソン人の和解を示す重要な結婚であった。なお、この時点でヘンリーは複数の愛人との間に少なくとも20人以上の子供をもうけている。
後継者問題[編集]
ヘンリーとマティルダの間には少なくとも4人の嫡出子が生まれたが、成長したのはマティルダ王女とウィリアム王子の2人だけだった。しかし1118年に王妃マティルダが死亡し、さらに1120年にはウィリアム王子が海難事故で死亡し後継者がいなくなってしまう。男子を残すため1121年にルーヴァン伯の娘アデライザと結婚するが子供は産まれなかった。1135年12月1日、ヘンリーはヤツメウナギの食べ過ぎで体調を崩し崩御した。遺言によりマティルダ王女が王位を継ぐことになるが、ヘンリーの甥スティーヴンが自身の王位を主張し、イングランドは内戦に突入することとなる。