ウィリアム1世 (イングランド王)
ウィリアム1世(英:William I)とは、イングランド・ノルマン朝の初代国王である。ノルマン・コンクエストを行ってイングランドを征服したことからウィリアム征服王(英:William the Counqueror)とも呼ばれる。イギリス王室の祖とされる人物で、彼の血統は現在のイギリス国王にも受け継がれている。なお、フランスの貴族でもあり、この場合ノルマンディー公ギヨーム2世となる。
生涯[編集]
ノルマンディー公時代[編集]
1027年または1028年、ノルマンディー公ロベール1世とアルレットの唯一の息子として生まれる。ロベールとアルレットは正式に結婚しておらず、ギヨームは庶子であった。ノルマンディー公は911年に当時のノルマン人の首領ロロが当時の西フランク王シャルル単純王から領土を与えられたことで成立した国で、ノルマンディー公は一応フランス王の臣下という扱いになっていた。1035年に父が亡くなるとノルマンディー公の地位を継ぐが、彼が庶子ということを理由に反対する者も多かった。ギヨームは親族やフランス王アンリ1世の後押しを得てなんとか自身の地位を固めることに成功した。ギヨームはアンジュー伯など他の貴族と戦争を繰り返す一方、カトリック教会への支援も拡充した。
ノルマン・コンクエスト[編集]
1066年1月5日、当時のイングランド王エドワード懺悔王が子供を残さず崩御した。エドワードは幼少期にデーン人の侵略から逃れてノルマンディーで亡命生活を送ったことがあり、その際ギヨームの大叔父に世話になったことからギヨームを後継者候補の1人に指名していた。しかし、アングロ・サクソン人のイングランド貴族達で構成される議会はエドワードの妻の甥であるハロルド・ゴドウィンソンを次の王に選出した。
これに対しギヨームは先述の理由から自身の王位継承権を主張し、ハロルドを討伐するためイングランドへの遠征を画策した。一説には3000隻とも言われる膨大な艦隊を編成し、嵐の影響で遅れつつも9月28日にグレートブリテン島に上陸した。10月14日、ハロルドの軍勢はギヨームの軍をヘイスティングズの地で迎え撃った。所謂ヘイスティングズの戦いの幕開けである。序盤はイングランド軍の歩兵部隊が集団陣形をとることでノルマンの騎兵隊の突撃を防ぎ圧倒したが、ノルマン側の偽装退却で陣形が崩れたところを弓兵隊の一斉射撃と別働隊の強襲で一網打尽にされ、ギヨームの勝利に終わった。ハロルドは目に矢を受け戦死したとされる。
ギヨームはハロルドの残党を駆逐しつつロンドンに入場し、12月25日、イングランド王ウィリアム1世として戴冠された。これによりノルマン朝が創始され、500年に渡って続いたアングロ・サクソン人のイングランド支配は終焉を告げた。
イングランド統治[編集]
ウィリアム1世はノルマン・コンクエストで一掃されたアングロ・サクソン人貴族の土地にノルマンディー公時代からの家臣達を奉じた。このためノルマン朝の王権は同年代のカペー朝や神聖ローマ帝国に比べると遥かに強大であった。土地台帳のドゥームズデイ・ブックの編纂を命じたことも有名である。しかし治世後半に入ると息子ロベールとの対立やデーン人との戦争に悩まされるようになった。1087年9月9日、ロベールと同盟を結んだフランスへの遠征中、ルーアンで崩御した。三男のウィリアムが王位を継承した。
余談[編集]
- 彼の妻マティルダ・オブ・フランダースはギヨームが庶子であることを理由に求婚を断っていた。しかし痺れを切らしたギヨームが彼女を誘拐して殴りつけると、「私を殴るなんて勇敢な男に違いないわ」と結婚を承諾した模様。
- 晩年は肥満気味であり、葬儀の際に遺体を無理やり棺に押し込もうとしたところ体内に充満したガスが爆発し凄惨なことになったという。
- フランスをルーツに持つ彼が王朝を開いたことで、以後百年戦争期までイングランドの上流階級の間ではフランス語が話された。