ヘンリー2世
ヘンリー2世(英:Henry II)とは、イングランド・プランタジネット朝の初代国王。渾名は短マント王。
前半生[編集]
1133年3月5日に生まれる。父はアンジュー伯ジョフロワ5世、母はイングランド王女マティルダ・オブ・イングランド。アンジュー伯は一応フランス王の家臣であったが、この頃にはほぼ独立していた。1135年以降、母マティルダとその従兄弟スティーヴンとの間でイングランド王位を巡る内戦が勃発した。アンリは母側で何度か戦闘に参加したが、戦況に大きな影響を与えることはなかった。1153年に和平が結ばれ、スティーヴンの死後ヘンリーがイングランド王位を継ぐことが決まった。
1150年、ジョフロワが亡くなったことで彼がイングランドの内戦につけ込んで征服していたノルマンディーとアンジューを相続。またこの頃から仏王ルイ7世王妃のアリエノール・ダキテーヌと堂々と不倫するようになり、1152年にルイ7世と離婚するとそのわずか2ヶ月後にヘンリーとアリエノールが再婚した。1154年、スティーヴン王が崩御しヘンリーがイングランド王に即位。これによりノルマン朝に代わってプランタジネット朝が創始され、イングランド・ノルマンディー・アキテーヌ・アンジューなど広大な領土を持つアンジュー帝国が誕生した。
治世[編集]
ヘンリー2世は内戦で荒廃したイングランドの復興に努め、法律を整備して王権を強化した。しかし、外交面ではアンジュー帝国の崩壊を目論む仏王ルイ7世らとの戦争に力を注ぐ必要があったため、ロンドンに滞在することは少なくルーアンが事実上の首都であった。また、宗教面ではカンタベリー大司教のトマス・ベケットを通じて教皇庁との関係強化を図った。
しかし、王権の伸長を望むヘンリーと教会の自由を重視するトマスは次第に対立するようになった。1164年、トマスは犯罪を犯した聖職者に関する法案に反対したためヘンリーの怒りを買い、フランスに国外追放された。1170年、ヘンリー2世は長男ヘンリー(以降若ヘンリーと表記)をベケットの立ち会い無く共同統治者として戴冠した。イングランド王の即位には通例カンタベリー大司教の同意が必要なため、ベケットは怒りヘンリー2世の部下の聖職者を破門に処した。するとこれに怒ったヘンリー2世の部下の騎士がカンタベリー大聖堂に押し入り、ベケットを暗殺する事件が勃発。この事件でヘンリーは教会を敵に回し、求心力が低下し始めることとなる。
妻・息子との対立[編集]
ヘンリー2世とアリエノールの間には若王ヘンリー、リチャード、ジェフリー、ジョンの4人の男子がいた。しかし1166年、末子ジョンの妊娠中にヘンリー2世の浮気が発覚し、激怒したアリエノールは息子たちを連れて領地のアキテーヌに引き篭もるようになった。ここに息子達が敬愛していたベケットの暗殺事件も加わってヘンリー2世と息子たちとの関係は修復不可能なほど悪化し、1173年3月にアリエノールに焚き付けられた若王ヘンリー、リチャード、ジェフリーが反乱を起こした。反乱にはスコットランドやフランスも加勢したためヘンリー2世もこれで終わりかと思われたが、有り金を全て叩いて傭兵をかき集め、僅か半年で反乱を鎮圧することに成功した。ヘンリー2世は息子達には寛大な処置をとったが、首謀者と目されたアリエノールは反逆の罪で幽閉となった。
1180年にフランス王ルイ7世が崩御し、フィリップ2世が即位。フィリップ2世は父の政策を引き継いでアンジュー帝国の解体を試みた。1183年、両親に先立って若王ヘンリーが死去し、繰り上がりでリチャードが王位継承者となった。リチャードは父ではなくフィリップ2世の元に入り浸り、ヘンリーとの親子の仲は冷え切っていた。1188年、ヘンリー2世はリチャードに対しアキテーヌを相続する領地の無いジョンに譲るように要求した。当然憤慨したリチャードはフィリップの支援を受けて反乱を起こした。当時ではすでに老齢だったヘンリーに最早戦う体力も無く、敗戦を重ねて追い詰められていった。1189年、病床のヘンリーは部下に裏切り者のリストを読み上げさせたが、その中には最愛の末子ジョンの名前があった。彼の名前を聞いたヘンリーは絶望のあまり生きる気力を失い、7月6日に崩御した。享年56。次男のリチャードが後を継いだ。
逸話[編集]
- 若王ヘンリーの即位の際、ヘンリー2世は自ら息子に王冠を授け「国王が給仕するのは滅多にないことだ」と冗談を言った。すると若王は「父上は伯の息子なので王子の私に給仕するのは当然でしょう」と返したという。
- 短気な性格で、家臣の讒言に怒って発狂しながら床を転がり回ったことがある。