アンリ4世 (フランス王)
アンリ4世(英:Henri IV)とは、フランス・ブルボン朝の初代国王。アンリ大王、良王アンリとも称される。
生涯[編集]
プロテスタントの盟主へ[編集]
1553年12月13日、ブルボン家のヴァンドーム公アントワーヌとナバラ女王ジャンヌ・ダルブレの元に生まれる。ブルボン家はカペー朝のフランス王ルイ9世の6男ロベールが創始した由緒正しい貴族である。当時のフランスではカトリックとカルヴァン派プロテスタント(ユグノー)の宗教対立が激化しており、母の影響でユグノーを信仰していたアンリはユグノーの有力な王位継承権保有者として注目された。
サンバルテルミの虐殺[編集]
1562年、カトリック側のリーダー・ギーズ公フランソワがユグノーを虐殺したことで両派の関係は修復不可能となり、ユグノー戦争が勃発する。ブルボン家もユグノー側で参戦するが、父と叔父が相次いでで戦死したため、アンリがブルボン公の地位を継ぎ新教徒側のリーダーに担ぎ上げられた。1572年には母が急死してナバラ王にも即位した。同年8月、カトリックとユグノーの和解のためアンリと王女マルグリットの結婚式がパリで開かれた。しかし、王太后カトリーヌ・ド・メディシスはこの機にユグノーを根絶やしにしようと考え、婚姻を祝うためにパリに集まっていたユグノー貴族を大量虐殺させた。アンリは命は奪われなかったものの、カトリックに強制改宗させられた上に幽閉された。
ユグノー戦争終結[編集]
1576年、アンリは隙をついてパリから脱出し、プロテスタントに改宗してユグノーの盟主に返り咲いた。1587年にはクートラの戦いでカトリック同盟に大勝を収める。カトリック側はギーズ公アンリと国王アンリ3世とギーズ公アンリの内ゲバもあって有効に対処できず、1588年と1589年に両者は暗殺された。アンリ3世は遺言でナバラ王アンリを後継者に指名し、1589年8月2日、フランス国王に戴冠されてブルボン朝を創始した。
1593年、再びカトリックに改宗することで国民の支持を取り付け、翌年パリに入城を果たした。抵抗していた過激派カトリック勢力も1598年までに平定された。4月30日、アンリ4世はナントの王令を発布してユグノーの信仰の自由を認めることで宗教対立は収束に向かった。
治世[編集]
王位に就いたアンリは関係が冷え切っていたマルグリット・ド・ヴァロワと離婚し、メディチ家からマリー・ド・メディシスを新妻に迎えた。彼女との間には王太子ルイ(後のルイ13世)を含む3男3女をもうけた。アンリは無類の女好きで沢山の愛妾がおり、庶子の数は一説では50人以上とされる。
政治面では有能で、内戦で荒れ果てたフランスを建て直しただけでなく芸術家を保護して文芸も興隆させた。また、市民の声を聞くために時々変装して街に出ていたという。
暗殺[編集]
しかし1610年5月14日、アンリが場所に乗ろうとした際に狂信的カトリック教徒フランソワ・ラヴァイヤックに刃物で襲われて死亡した。享年56。犯人は八つ裂きの刑に処された。長男ルイがルイ13世として新王に即位した。