長門 (戦艦)

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長門(ながと)は、大日本帝国海軍戦艦長門型戦艦の1番艦である。艦名は長門国に由来する。日本海軍初の40cm(正確には41cm)砲を搭載した「ビッグ7」の一角を占める戦艦であり、その高速性能と相まって、竣工当時は世界最強の戦艦と謳われた。

艦歴[編集]

「長門」は、1917年8月28日呉海軍工廠で起工。1919年11月9日に進水し、1920年11月25日に竣工した。

竣工後は、主に連合艦隊の旗艦を務め、その威容は日本国民に広く知られ、「長門と陸奥は日本の誇り」と歌われるほどであった。

太平洋戦争開戦時には、連合艦隊旗艦として真珠湾攻撃の作戦発動を命じた。その後、ミッドウェー海戦マリアナ沖海戦などに参加したが、僚艦「陸奥」のような戦闘による損害はほとんどなかった。

1945年終戦時まで残存した数少ない大型艦の一隻であり、呉軍港空襲でも大きな損傷を受けずに終戦を迎えた。

終戦後、賠償艦としてアメリカ合衆国に引き渡された。1946年ビキニ環礁で行われた核実験クロスロード作戦」の標的艦となり、2回の原子爆弾投下にも耐え抜いたが、最終的に7月29日に転覆沈没した。その最期は、長門の頑丈さを示すものとして語り継がれている。

艦体[編集]

「長門」の最大の特徴は、主砲に45口径41cm連装砲4基8門を搭載した点である。これは、当時世界最大の口径であり、その後の戦艦建造に大きな影響を与えた。また、機関にはギアード・タービンを採用し、26.5ノットという高速を発揮した。これは、当時の戦艦としては異例の高速であり、高速戦艦の先駆けとなった。

防御力も高く、水線部に305mm、甲板に75mmの装甲を有し、主要部に厚い装甲が施されていた。

豆知識[編集]

  • 「長門」の公試排水量は基準排水量よりも多く、公試の速度記録は3ノット近く上回る26.5ノットであった。これは、当時としては驚異的な高速性能であり、世界中の海軍関係者を驚かせた。
  • 「長門」の艦橋は、独特のパゴダマスト形状をしており、その威容から「軍艦の城」とも呼ばれた。
  • 「長門」は、竣工から終戦まで、一度も日本本土から離れて戦闘に参加することなく、ほぼ日本近海に留まっていた。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 歴史群像編集部『長門型戦艦』学習研究社〈歴史群像太平洋戦史シリーズVol.51〉、2005年。
  • 光人社編集部『日本戦艦史』光人社〈世界の艦船増刊第22集〉、1992年。