箱根登山鉄道

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箱根登山鉄道(はこねとざんてつどう)は、株式会社小田急箱根の旧社名である。

概要[編集]

1888年(明治21年)2月21日に小田原馬車鉄道株式会社が設立され、国府津から小田原経由湯本までの馬車鉄道が開業した。1896年(明治29年)、小田原電気鉄道株式会社に名称変更した。1900年(明治33年)3月21日、電気鉄道線の営業を開始した。1919年(大正8年)6月1日に箱根湯本から強羅間の登山鉄道線を営業開始した。1928年(昭和3年)8月13日 日本電力から分離して箱根登山鉄道株式会社(初代)が設立される。1935年(昭和10年)10月1日、小田原から強羅間の直通運転を開始する。 1956年、箱根登山鉄道小田原市内線は神奈川県小田原市の小田原停留場-箱根板橋停留場間2.4kmの路面電車であったが、自動車交通量の増大のため支障があるとされ、神奈川県と小田原市からの撤去要請を受け入れて箱根登山鉄道は廃線とした。

2003年8月、小田急電鉄株式会社の完全子会社となる。2004年(平成16年)10月1日、会社分割により箱根登山鉄道株式会社(2代目)を新設する。2018年(平成30年)10月1日、箱根登山鉄道株式会社創業130周年となる。2024年4月1日付で箱根登山鉄道、箱根観光船、箱根施設開発が合併した。箱根登山鉄道を存続会社とし、新名称は「小田急箱根」となる[1]。路線バスを運行する「箱根登山バス」は、統合の対象外であった。箱根以外でも事業を展開しているため、統合のメリットは限定的とされた。愛称はそれぞれ、鉄道線は「箱根登山電車」、鋼索線は「箱根登山ケーブルカー」、索道は「箱根ロープウェイ」、芦ノ湖の遊覧船は「箱根海賊船」と、存続する。「箱根登山鉄道」の社名は消滅したが、会社としては存続する。

特色[編集]

小田原市民の声を受けて小田原の有力者である吉田義方が発起人となり、小田原馬車鉄道(株)が設立された。起点は東海道線国府津停車場前、終点は湯本の旭日橋の手前広場であった。ケーブルカーは、 1921年(大正10年)に下強羅(現在の強羅)-上強羅(現在の早雲山)間で開業した。小田急は箱根を周遊する鉄道を構想しており、1912年(大正元年)に湯本─強羅間の登山鉄道の建設に着手した。延長8.9㎞、高低差445mに対応するため、最急勾配80‰(パーミル)、最小曲線30mを採用し、3個所にスイッチバックを設ける本格的な山岳鉄道である。6月中旬から7月中旬にかけて、沿線に咲く約1万株のあじさいを電車内から楽しむことができ「あじさい電車」とも呼ばれている。

箱根アルプス構想[編集]

三井物産の益田孝は欧米視察で得た知見から「箱根アルプス構想」を提唱した。益田は箱根山にスイスの様な登山鉄道を建設すべしと提案した。スイス東南部を走るベルニナ鉄道とマルテェー・シアッラール鉄道を参考にして設計変更案が作られた。設計の変更に伴い、建設費が当初の予算を大幅に上まわる見通しになり、小田原電気鉄道では、新たな資金調達が必要となった。益田孝、柳沢保恵、松下軍治、杉原栄三郎、二見亀三の5名を調査委員として任命し、建設費予算の増額が調査委員に認められた。資本金総額は660万円(うち未払金165万円)となったが、益田等の人脈で資金調達が行われた。 強羅園は益田の提案を元に作られた施設であった。強羅園の一画に整備された白雲洞茶苑は、強羅開拓に大きな功績のあった益田に寄贈された。

小田急箱根[編集]

小田急箱根」株式会社の事業内容としては箱根登山電車(小田原―強羅)、箱根登山ケーブルカー(強羅―早雲山)、箱根ロープウェイ(早雲山―桃源台)の運行のほか、芦ノ湖の遊覧船「箱根海賊船」の運航、不動産業、温泉・遊園地業、飲食、物販、ホテル業となった。 資本金は1億円で、株主は小田急電鉄株式会社のみ(100%子会社)である。

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