労働者学習センター

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労働者学習センター(ろうどうしゃがくしゅうセンター)は、社会党[1][2]総評[3][4]の労働者教育機関。

1961年12月1日[5]構造改革論争を契機として労働者教育協会(労教協)から分裂して設立された[4]。総評主流派がバックアップし[6]、総評事務局長の岩井章全逓宝樹文彦自治労安養寺俊親炭労原茂東大教授の大河内一男らが発起人となった[7]。設立趣旨では「特定の政治的立場に偏しない統一の場を求めて」と謳い、具体的には日本共産党の支配、影響を排し、総評の立場から労働者教育活動を行うという立場をとった[8]

高垣䙥二郎(元炭労中執、労教協副会長)によると、労教協の学習誌『学習の友』1961年4月号は「構造改革とはなにか」という特集を組み、構造改革論を賛否両論併記で紹介。構造改革論に反対する日共は機関紙『アカハタ』で『学習の友』特集号は「反労働者的」と批判し、労教協の理事会でも日共に呼応する議論が行われた。1961年9月の第2回学習活動全国集会で宮川実実行委員長(労教協副会長)は理事会・常任理事会に諮らず「「学習の友」の編集内容が悪くなっている。編集に偏向があり、これを正さなければならない」という発言をした。その後、理事会で編集局員と担当理事が解任された。日共の大衆団体への介入を契機に炭労は協会を脱退し、労働者学習センターの発足に至った。発足にあたり労働大学が刊行する『まなぶ』との合体が論議されたが、構造改革論の評価の違いと労働大学の意思から実現しなかった[7]

社会運動調査会編『左翼団体事典 1964年版』(武蔵書房、1963年)によると、労教協の『学習の友』の編集に日共が介入した結果、1961年11月15日に日共の方針に反対する高垣副会長ら5名の春日派が「労働組合、文化人、読者のみなさんに訴える」というアピールを発表し、労働者学習センターを設立する準備会を結成。1961年12月1日にセンターが発足し、同時に発表された講師団の主要メンバーは社会党主流派と構造改革論を標榜する春日派が占めた[9]

思想運動研究所編『左翼30集団』(全貌社、1968年)によると、労教協の『学習の友』1961年4月号は構造改革論に対する批判的見解なしの特集であったため、日共が反発。1961年10月の常任理事会で編集部人事の一新を決定。11月の理事会で副会長の高垣礼二郎(炭労)、常任理事の広田久隆東貨労)、横山不二夫前野良の4名と編集部員数名を除名、かわって日共系役員を選出し、日共が労教協の指導権を掌握した[10]

1962年3月に月刊の学習誌『学習のひろば』を創刊。同誌の発行を中心にパンフレットの発行、短期の労働講座の開催、学習会への講師の斡旋などを行っている[8]田中尚輝によると、社会党右派系の労働者教育機関であり、『学習のひろば』発行以外に見るべき活動はない[11]。1988年1月発行の第311号から『学習のひろば』を『ひろばユニオン』に改題した。『ひろばユニオン』は2024年3月発行の第745号をもって休刊した。

発起人[編集]

出典:[9]。1963年時点で理事。

出典[編集]

  1. 「国内情勢の推移と展望――1970年の時点に向けて」『内閣官房調査月報』第13巻第4号(通巻148号)、1968年4月
  2. 「労働組合の窓」『改革者』第22巻第10号(通巻262号)、1982年1月
  3. 小山弘健『日本社会運動史研究史論 続』新泉社、1979年
  4. a b 高橋佐門『日本の労働教育――労働と文化の谷間』評言社、1972年、137頁
  5. 出版ニュース社編『出版年鑑 1965年版』出版ニュース社、1965年、1558頁
  6. 高橋佐門『日本の労働教育――労働と文化の谷間』評言社、1972年、244頁
  7. a b 「炭労-激闘あの日あの時」編纂委員会編『炭労――激闘あの日あの時』日本炭鉱労働組合、1992年、296-298頁
  8. a b 伊藤三次『日本の勤労者教育』日本評論社、1968年、141頁
  9. a b 社会運動調査会編『左翼団体事典 1964年版』武蔵書房、1963年、217-218頁
  10. 思想運動研究所編『左翼30集団――こうして日本は破壊される』全貌社、1968年、264頁
  11. 田中尚輝「労働者教育とは何か(下)」『社会主義』第215号、協同文化社、1969年11月

関連項目[編集]