ワルシャワ条約機構軍

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ワルシャワ条約機構軍(ワルシャワじょうやくきこうぐん、ロシア語: Объединённые вооружённые силы государств — участников Варшавского договора英語: United Armed Forces of the Warsaw Treaty Organization)は、ワルシャワ条約機構ワルシャワ条約)の加盟国によって構成された軍事組織である。正式名称は「ワルシャワ条約加盟国統合軍」である。

冷戦期の東側諸国における集団防衛体制の中核を担い、北大西洋条約機構NATO)に対抗する目的で創設された。

歴史[編集]

創設[編集]

ワルシャワ条約機構軍は、1955年5月14日にポーランドの首都ワルシャワで調印されたワルシャワ条約に基づいて創設された。これは、ドイツ連邦共和国西ドイツ)の北大西洋条約機構NATO)への加盟と再軍備に対するソビエト連邦を中心とする東側諸国の対抗措置として行われた。

ワルシャワ条約機構軍の最高司令官は常にソビエト連邦軍の将校が務め、ソ連の軍事ドクトリンと装備が組織全体の標準とされた。加盟各国の軍隊は、事実上ソ連の指揮下に置かれる形となった。

冷戦期の活動[編集]

ワルシャワ条約機構軍は、その存続期間中、主にNATOに対する抑止力として機能した。大規模な軍事演習が頻繁に行われ、加盟国間の軍事協調と相互運用性の向上に重点が置かれた。

最も特筆すべき軍事行動は、1968年8月にチェコスロバキア社会主義共和国で発生したプラハの春に対する介入である。ソ連を筆頭とするワルシャワ条約機構軍は、チェコスロバキア国内の自由化運動を鎮圧するために侵攻した。この介入は、ブレジネフ・ドクトリンの具体的な適用例として知られ、ソ連が東欧衛星国の主権を制約する権利を有するという原則を示した。これに抗議し、アルバニア人民共和国は1968年にワルシャワ条約機構を脱退した。

解体[編集]

1980年代後半になると、ソビエト連邦の崩壊に繋がるペレストロイカグラスノストの進展、そして東欧革命の波によって、ワルシャワ条約機構の結束は急速に緩んだ。ドイツ再統一により、ドイツ民主共和国1990年にワルシャワ条約機構を脱退し、その軍隊はドイツ連邦軍に統合された。

1991年2月25日、ハンガリーのブダペストで開かれた会議において、ワルシャワ条約機構の軍事部門の解体が決定された。同年7月1日、プラハで正式な解体議定書が調印され、ワルシャワ条約機構軍はその歴史に幕を閉じた。

組織と構成[編集]

ワルシャワ条約機構軍は、最高司令官を頂点とする司令部によって統括された。この司令部はモスクワに置かれ、加盟各国の軍隊は、それぞれ自国の軍事予算と指揮系統を維持しつつも、事実上はソ連軍の指導と監督下に置かれた。

  • 最高司令官: 常にソビエト連邦軍の元帥または上級大将が務めた。
  • 参謀長: 最高司令官と同様にソ連軍の将校が務めた。
  • 合同軍事評議会: 加盟各国の国防大臣および参謀総長で構成され、軍事政策の決定に関与したが、実権はソ連が握っていた。

ワルシャワ条約機構軍は、主に以下の軍種で構成されていた。

  • 陸軍: 加盟各国がそれぞれの規模に応じた陸軍を保有し、共同演習や訓練を通じて相互運用性の確保が図られた。
  • 空軍: 各国が保有する空軍もワルシャワ条約機構軍の一部として機能し、ソ連製の航空機が主流であった。
  • 海軍: バルト海沿岸国や黒海沿岸国が海軍を保有し、共同での海洋演習も実施された。

装備面では、ソ連製の兵器が圧倒的多数を占め、T-54/55T-62T-72などの戦車、MiG-21MiG-23Su-22などの戦闘機、AK-47などの小火器が各国軍に広く配備された。

歴代最高司令官[編集]

ワルシャワ条約機構軍の最高司令官は、すべてソ連邦元帥またはソビエト連邦軍の上級大将が務めた。

豆知識[編集]

  • ワルシャワ条約機構軍の軍服は、加盟国ごとに異なっていたが、ソ連軍の軍服に影響を受けたデザインが多かった。
  • 冷戦期、ワルシャワ条約機構軍の兵力はピーク時で約600万人に達したと推定されている。
  • ワルシャワ条約機構の軍事演習には、「盾」(Shield)シリーズなど、大規模なものが多数存在した。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • グルチャード・ヴィクトル『ワルシャワ条約機構軍』学研プラス、2010年。
  • 加藤朗『冷戦とデタント: ソ連外交史の軌跡』有斐閣、2004年。
  • 歴史群像編集部『MILITARY CLASSICS Vol.7 ワルシャワ条約機構軍装備ガイド』学研プラス、2004年。