セルゲイ・コロリョフ
セルゲイ・パヴロヴィチ・コロリョフ(ロシア語: Сергей Павлович Королёв、1907年1月12日 - 1966年1月14日)は、ソビエト連邦の主要なロケット技術者であり、宇宙開発競争におけるソ連側の指導者である。彼の指導のもと、ソ連は世界初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げ、初の有人宇宙飛行であるユーリイ・ガガーリンによるボストーク1号の飛行を成功させた。ソ連の宇宙計画における彼の役割は、アメリカ合衆国におけるヴェルナー・フォン・ブラウンに匹敵するものであり、「ソ連の宇宙開発の父」と称される。
生涯[編集]
幼少期から学生時代[編集]
セルゲイ・コロリョフは1907年1月12日、現在のウクライナのジトーミルに生まれた。父親は教師のパーヴェル・ヤコヴレヴィチ・コロリョフ、母親はマリア・ニコラエヴナ・モスカレンコであった。両親は彼が幼い頃に離婚し、母親と祖父母に育てられた。幼少期から機械や航空機に強い関心を示し、地元の航空クラブでグライダーの設計と製作に参加した。
1924年、キエフ工科大学に入学し、航空工学を学ぶ。その後、1926年にモスクワ高等技術学校(現在のバウマン記念モスクワ国立技術大学)に編入し、著名な航空機設計者であるアンドレイ・ツポレフの指導を受けた。学生時代には、航空機設計だけでなく、ロケット推進の可能性にも興味を持ち始めた。
ロケット研究と大粛清[編集]
1930年代に入ると、コロリョフはロケット研究の道を本格的に進む。1931年、フリードリッヒ・ツァンダーとともに反動推進研究グループ(GIRD)を設立し、ソ連における液体燃料ロケットの研究開発を主導した。GIRDは、ソ連初の液体燃料ロケットであるGIRD-09の打ち上げに成功した。
しかし、1938年、ヨシフ・スターリンによる大粛清の嵐が吹き荒れる中、コロリョフは反革命活動の容疑で逮捕され、シベリアのコリマにある強制労働収容所に送られた。過酷な環境で健康を害したが、その技術的才能を評価され、その後はシャラーシュカと呼ばれる、政治犯の科学者・技術者を収容した特別設計局で研究開発に従事させられた。そこで、彼は航空機設計に従事し、その経験が後のロケット開発に生かされることとなる。
第二次世界大戦後とミサイル開発[編集]
第二次世界大戦終結後、ソ連はドイツのV2ロケット技術を徹底的に研究した。コロリョフはV2ロケットの調査チームの一員としてドイツに派遣され、その技術をソ連に導入する責任者となった。この経験が、彼に大陸間弾道ミサイル(ICBM)開発の重要性を認識させた。
1946年、彼はミサイル技術開発の中心である特別設計局OKB-1の主任設計者に任命された。彼の指導のもと、ソ連はV2ロケットの技術を基にした国産ミサイルの開発を進め、最終的にはソ連初のICBMであるR-7を開発した。R-7は、その後のソ連の宇宙開発の基盤となる画期的なロケットであった。
宇宙時代の幕開け[編集]
R-7の成功は、コロリョフに新たな可能性、すなわち宇宙への扉を開いた。彼は、ICBMを宇宙ロケットとして転用し、人工衛星を打ち上げることを提案した。当初、軍部からは懐疑的な意見もあったが、コロリョフは粘り強く説得を続けた。
そして、1957年10月4日、R-7を改良したロケットによって、人類初の人工衛星であるスプートニク1号が打ち上げられた。この歴史的な成功は、世界に大きな衝撃を与え、米ソ間の宇宙開発競争の幕開けとなった。
スプートニク1号の成功に続き、1957年11月3日には、初の生体(犬のライカ)を乗せたスプートニク2号を打ち上げた。そして、1961年4月12日、コロリョフの最大の功績の一つである、人類初の有人宇宙飛行であるユーリイ・ガガーリンによるボストーク1号の飛行が実現した。この成功により、ソ連は宇宙開発競争において一時的にアメリカをリードした。
その後も、ボストーク計画に続くボスホート計画、そして月への有人飛行を目指すN-1計画など、意欲的な宇宙開発計画を推進した。しかし、彼の業績は、ソ連政府の秘密主義のため、生前はほとんど公にされることはなかった。彼は「主任設計者」(Главный Конструктор)としてのみ知られ、その真の身元は死後になってようやく公表された。
死と遺産[編集]
セルゲイ・コロリョフは1966年1月14日、モスクワで手術中の合併症により急逝した。59歳であった。彼の死はソ連の宇宙開発に大きな痛手となり、その後のソ連の月計画の失敗にもつながったとされる。
彼の遺体はクレムリンの壁墓所に埋葬され、国家的な栄誉が与えられた。彼の功績を称え、月のクレーターや小惑星には彼の名前が付けられている。
コロリョフは、ソ連の宇宙開発を主導し、人類の宇宙への扉を開いた真のパイオニアであった。彼のビジョンと技術力は、現代の宇宙技術の基礎を築き、宇宙開発の歴史に永遠にその名を刻んでいる。
豆知識[編集]
- コロリョフは、政治的な理由から生前はほとんど公に姿を現すことがなく、その存在は国家機密であった。西側諸国では、彼が誰であるのかを知る者はごくわずかだった。
- 彼は極度の秘密主義のため、自身の業績について家族にさえほとんど語らなかったという。
- ソ連の宇宙船は、彼が設計したR-7ロケットの派生型を、現在でも宇宙飛行士や物資の輸送に利用している。
関連項目[編集]
参考文献[編集]
- ジェームズ・ハーフォード 著、松浦寛 訳『世界のロケットの父 コロリョフ:ソ連宇宙開発の栄光と悲劇』早川書房、1997年。ISBN 978-4152080894。
- 『スプートニクと人類初の宇宙飛行:秘録ソ連宇宙開発』文藝春秋、1997年。ISBN 978-4163531608。