ジャック・シラク

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ジャック・ルネ・シラク(フランス語: Jacques René Chirac、1932年11月29日 - 2019年9月26日)は、フランス政治家。第5共和制第5代フランス共和国大統領アンドラ公国共同元首、首相パリ市長などを歴任した。

来歴[編集]

ジャック・シラクは、1932年11月29日パリセーヌ県第5区で生まれた。父親は公務員のアベル・フランソワ・シラク、母親はマリー=ルイーズ・ヴァンサントヴェズレーで少年時代を過ごした。

1954年パリ政治学院を卒業。その後、軍隊に入隊し、アルジェリア戦争に参加した。1959年フランス国立行政学院(ENA)を卒業。官僚の道へ進む。

政治家としてのキャリア[編集]

1962年ジョルジュ・ポンピドゥー首相の官房スタッフとなり、政治の世界へ足を踏み入れる。1967年国民議会議員に初当選。シャルル・ド・ゴール政権下で雇用担当国務長官を務めるなど、頭角を現した。

1974年ヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領の下で首相に就任。しかし、ジスカール・デスタンとの対立から1976年に辞任した。

1976年ド・ゴール主義政党である共和国民主連合を改組し、共和国連合(RPR)を結成し、その党首に就任。

1977年パリ市長に当選し、1995年まで務めた。

大統領時代[編集]

1986年から1988年にかけて、再び首相を務める。この時期、ミッテラン大統領との間でコアビタシオン(保革共存)と呼ばれる体制が生まれた。

1995年大統領選挙に出馬し、社会党のリオネル・ジョスパンらを破って当選。第5共和制第5代フランス共和国大統領に就任した。

大統領就任後、核実験の再開を決定し、国際的な批判を浴びた。また、EU統合推進に積極的に貢献し、ユーロ導入を主導した。

1997年に国民議会を解散し、総選挙を実施したが、社会党が勝利したため、再びリオネル・ジョスパンとのコアビタシオン体制となった。

2002年大統領選挙では、極右政党国民戦線ジャン=マリー・ル・ペンが決選投票に進出するという異例の事態となったが、幅広い支持を得て再選された。

2期目の大統領任期中には、イラク戦争への反対を明確に表明し、国際社会でのフランスの独自路線を貫いた。また、国際刑事裁判所の設立や京都議定書の批准に貢献した。

2007年に大統領を引退。後任にはニコラ・サルコジが就任した。

大統領退任後[編集]

大統領退任後は、フランス憲法評議会の終身委員を務めた。

2011年パリ市長時代の公金流用疑惑で有罪判決を受けたが、健康上の理由から刑務所への収監は免れた。

2019年9月26日パリの自宅で死去。86歳没。

評価[編集]

ジャック・シラクは、フランスの政治に長きにわたり影響を与えた人物である。ド・ゴール主義の継承者を自任しつつも、現実的な政治運営を行い、中道右派の政治家としてフランス社会をまとめる役割を果たした。欧州統合の推進者でもあり、国際舞台においてもフランスの存在感を高めることに尽力した。

豆知識[編集]

  • シラクは非常に愛犬家であり、特にマルチーズ種の犬を飼っていたことで知られています。
  • 若い頃はラグビー選手としても活躍していました。
  • 彼は「トラクター」というニックネームで呼ばれることもありました。これは彼の政治的粘り強さや活動的な性格に由来すると言われています。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • ドミニク・バウディス『シラク』、中央公論新社、1995年。
  • フィリップ・ヴィレット『ジャック・シラクの時代』、白水社、2007年。