ドボワチン D.520

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ドボワチン D.520(Dewoitine D.520)は、第二次世界大戦初期にフランス空軍が運用した単座の戦闘機である。ドイツ空軍メッサーシュミット Bf109に対抗しうる性能を持つ数少ないフランス製戦闘機の一つとして知られる。

開発[編集]

D.520の開発は、1936年フランス航空省が発出した次期戦闘機計画に基づいて開始された。この計画は、旧式化しつつあったモラーヌ・ソルニエ MS.406アルセナル VG.33などの戦闘機の後継となる、より高性能な迎撃戦闘機を求めるものであった。シュド・エスト・アヴィオン社(旧ドボワチン社)のエミール・ドボワチン技師によって設計されたD.520は、それまでのフランス製戦闘機とは一線を画する洗練された設計が特徴であった。

最初の試作機であるD.520-01は、1938年10月2日に初飛行した。しかし、初期の試験飛行では、エンジン出力の不足や冷却系統の問題、方向安定性の欠如など、いくつかの問題点が明らかになった。これらの問題は、設計変更と改良によって順次解決され、2号機、3号機と改良が進められた。特に、主翼の再設計とエンジンの換装により、飛行性能は大幅に向上した。

D.520は、当時としては最先端の技術を取り入れていた。引き込み式の降着装置、密閉式のコックピット、そして自動スラットの採用などがその例である。機体構造は全金属製モノコック構造で、その頑丈さも特筆すべき点であった。武装は機首のプロペラ軸内を通るイスパノ・スイザ HS.404 20mm機関砲1門と、主翼内のマキシム機関銃を装備する予定だったが、最終的には主翼内にMAC 1934機関銃が装備された。

生産と配備[編集]

1939年4月に量産命令が下され、D.520の生産が開始された。しかし、第二次世界大戦開戦直前のフランスの軍需産業は、生産能力が低く、D.520の量産は遅々として進まなかった。1940年5月ドイツ軍によるフランス侵攻までに、わずか数十機がフランス空軍に引き渡されたに過ぎなかった。

生産されたD.520は、主にフランス空軍の精鋭部隊に優先的に配備された。特に、GC I/3(第1/3戦闘航空隊)やGC II/7(第2/7戦闘航空隊)といった部隊がD.520を受領し、対独戦に投入された。D.520は、ドイツ空軍の主力戦闘機であるメッサーシュミットBf109Eに対しても互角以上の性能を発揮できる数少ないフランス機として、パイロットたちから高い評価を受けた。特に旋回性能に優れ、Bf109よりもタイトな旋回が可能であったとされている。

実戦[編集]

D.520の本格的な実戦投入は、1940年5月10日に始まったフランスの戦いからであった。緒戦では、メッサーシュミットBf109との交戦が多発し、D.520はその性能を遺憾なく発揮した。フランス空軍のパイロットは、劣勢な状況下にもかかわらず、D.520を駆って奮戦し、多くの戦果を挙げた。ある報告によれば、D.520は当時のBf109Eよりも優れた旋回性能と低速域での安定性を持っていたとされている。しかし、数的な劣勢と、フランス空軍全体の劣悪な指揮系統のために、その奮戦が戦局を覆すことはなかった。

1940年6月独仏休戦協定により、フランスは北部をドイツに占領され、南部にはヴィシー・フランスが成立した。休戦協定により、D.520の生産は一時的に中断されたが、その後、ヴィシー・フランス空軍の再編に伴い、生産が再開された。ヴィシー・フランス空軍は、D.520を北アフリカシリアなどの植民地防衛に投入し、連合国軍との衝突も発生した。1942年トーチ作戦では、イギリス軍アメリカ軍の航空機と交戦する場面もあった。

また、D.520はドイツ軍によっても接収され、一部はドイツ空軍の訓練機や連絡機として使用された。さらに、ドイツの同盟国であるイタリアブルガリアルーマニアにも供与され、これらの国々でも運用された。イタリア空軍では、D.520を一部の戦闘部隊に配備し、東部戦線での対ソ連戦やバルカン半島での対ユーゴスラビア人民解放軍戦などに使用した。ブルガリア空軍では、主に迎撃任務に投入され、アメリカ陸軍航空軍B-17B-24爆撃機に対する迎撃戦に参加した。ルーマニア空軍でも同様に、迎撃任務や偵察任務に従事した。

戦後[編集]

第二次世界大戦終結後、残存するD.520はフランスに回収され、一部はフランス海軍航空隊フランス空軍で練習機や連絡機として使用された。また、少数は戦闘機パイロット養成学校でも活用された。しかし、ジェット時代の到来とともに、D.520のようなプロペラ戦闘機は急速に旧式化し、1953年には全てのD.520が退役した。

現存機[編集]

現在、数機のD.520が世界各地の航空博物館に保存されている。その中でも、フランスのル・ブルジェ航空宇宙博物館に展示されている機体は、飛行可能な状態にまで復元されており、定期的に航空ショーでその雄姿を披露している。

諸元[編集]

  • 乗員: 1名
  • 全長: 8.60 m
  • 全幅: 10.20 m
  • 全高: 2.57 m
  • 翼面積: 17.3 m²
  • 空虚重量: 2,123 kg
  • 最大離陸重量: 2,660 kg
  • 動力: イスパノ・スイザ 12Y-45 液冷V型12気筒エンジン × 1
    • 出力: 930 hp (690 kW)
  • 最大速度: 535 km/h (高度5,000 m)
  • 巡航速度: 440 km/h
  • 航続距離: 1,200 km
  • 実用上昇限度: 10,000 m
  • 上昇率: 11.9 m/s
  • 武装:

豆知識[編集]

  • D.520は、その優れた性能にもかかわらず、生産の遅れとフランスの急速な敗戦により、その真価を十分に発揮する機会が限られてしまった悲劇の戦闘機と評されることもある。
  • D.520の設計者であるエミール・ドボワチンは、戦後、ナチス・ドイツ協力の容疑で逮捕された。
  • D.520の「520」という数字は、設計年度である1935年の「35」に、設計者のイニシャル「D」と試作機番号「5」を組み合わせた「D.535」から、改良に伴い「D.520」に変更されたと言われている。
  • ドイツ空軍のパイロットからは「フランスのスピットファイア」と評されたこともあった。

関連項目[編集]