軽巡洋艦 鹿島
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鹿島(かしま)は、大日本帝国海軍の軽巡洋艦であり、香取型練習巡洋艦の2番艦である。艦名は茨城県にある鹿島神宮に由来する。
概要[編集]
「鹿島」は、日中関係の緊迫化と第二次世界大戦勃発の兆候が見え始める1937年(昭和12年)に三菱重工業長崎造船所で起工された。当初は、将来の士官となる海軍兵学校生徒の練習艦として設計されたが、その汎用性の高さから太平洋戦争開戦後は旗艦や輸送任務など多岐にわたる任務に従事した。
香取型練習巡洋艦は、建造当時としては珍しく、有事の際には軽巡洋艦や駆逐艦を指揮する旗艦としての能力も想定されており、通信設備や司令部設備が充実していた。そのため、太平洋戦争開戦時には、その居住性の良さと指揮能力を活かし、主力艦隊の司令部艦として運用されることとなる。
艦歴[編集]
- 1937年10月6日:三菱重工業長崎造船所にて起工。
- 1939年9月25日:進水。
- 1940年5月31日:竣工。横須賀鎮守府に編入され、練習艦隊に配属される。
- 1940年11月15日:練習艦隊旗艦となる。
- 1941年12月8日:太平洋戦争開戦。開戦時は第四艦隊(司令長官:井上成美中将)旗艦としてトラック島に進出。南洋諸島方面の作戦を指揮する。
- 1942年:珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦に参加。特に珊瑚海海戦では、司令部艦として情報収集・分析、作戦立案に重要な役割を果たす。
- 1943年:トラック島を拠点に、ガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)の支援、ニューギニア方面への輸送任務などに従事。この頃から、航空機からの攻撃を避けるため、対空兵装の強化が行われる。
- 1944年:マリアナ沖海戦に参加。戦局の悪化に伴い、練習巡洋艦としての本来の任務よりも、輸送任務や対潜掃討任務が増加する。
- 1945年:本土決戦に備え、瀬戸内海に移動し、対空防御を強化。終戦まで呉軍港に所在。
- 1945年8月15日:終戦。
- 1945年10月5日:復員輸送艦として指定され、南方各地からの復員兵輸送に従事。
- 1946年12月26日:浦賀沖にてアメリカ軍により海没処分される。
諸元[編集]
「鹿島」は、訓練用途を主眼に設計されたため、他の巡洋艦と比較して武装は限定的であったが、通信能力や居住性、安定性に優れていた。
- 排水量:基準5,890トン、公試6,400トン
- 全長:133.5メートル
- 全幅:16.6メートル
- 吃水:5.75メートル
- 機関:艦本式タービン2基2軸、ロ号艦本式水管缶4基
- 出力:8,000馬力
- 速力:18ノット
- 航続距離:18ノットで8,000海里
- 兵装:
- 15.2cm単装砲4基
- 12.7cm連装高角砲2基
- 25mm連装機銃2基(後に増備)
- 53cm魚雷連装発射管2基
- 三年式機雷300個
- 搭載機:水上偵察機1機(カタパルト1基)
- 乗員:370名
豆知識[編集]
- 「鹿島」は、練習巡洋艦として建造されたが、開戦後はその優れた居住性と指揮設備から、多くの提督が旗艦として利用した。
- 太平洋戦争中、大きな損傷を受けることなく終戦を迎えた数少ない大型艦の一つである。
- 復員輸送艦として活動した際には、数多くの日本兵を故郷へ送り届けた。
関連項目[編集]
参考文献[編集]
- 『世界の艦船 増刊第57集 日本海軍艦艇史』(海人社、2001年)
- 雑誌『丸』編集部編『日本海軍艦艇写真集 巡洋艦』(光人社、1994年)
- 外山操『艦長たちの軍艦史』(光人社、2005年)