須田寛

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須田 寛(すだ ひろし、1931年1月28日 - 2024年12月13日)とは、日本の実業家。日本国有鉄道常務理事、東海旅客鉄道(JR東海)の初代代表取締役社長、代表取締役会長、相談役、顧問、参与を歴任した。名は寛と表記されることが多いが、正表記は寬(儿部の右側に点が入る)。

来歴[編集]

洋画家須田国太郎の長男として生まれる。1954年(昭和29年)京都大学法学部を卒業して日本国有鉄道(国鉄)に入社。1年間の研修後、静岡鉄道管理局に配属され、車掌として東海道本線・御殿場線で乗務を経験し、更に飯田線の災害不通に伴う佐久間湖連絡船にも添乗した。1968年(昭和43年)からは名古屋鉄道管理局に所属し、高山本線の輸送改善計画に携わっている。

1969年(昭和44年)本社・旅客局設備課長職に就く。1972年(昭和47年)に営業課長になるとディスカバー・ジャパンキャンペーンを前任の馬渡一真から引き継ぎ、「専門家の決めた内容に細かい注文をつけない」方針を徹底させた。その後は総務課長、名古屋鉄道管理局長、本社旅客局長、常務理事を務め、「鉄道ジャーナル」のタブレット欄の監修も行った。

1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化により、国鉄時代と縁のあるJR東海代表取締役社長に就任。東海道貨物支線の名古屋港線にナゴヤ球場正門前駅を整備して野球観客輸送に対応させた。一方、地上設備を新幹線鉄道保有機構から借り受けていたJR東海は東海道新幹線の維持管理費用を負担しながら減価償却費が計上できず、貸付期間終了後の譲渡が有償か無償か未定で債務が確定出来ないこと等を理由に機構から施設の買取を求め、実現させた。またのぞみ運転開始時、保線の都合からどうしても下り1番列車は名古屋駅を通過せざるを得なかった名古屋飛ばし問題の対応にも当たった。その後会長に就任。会長退任後は相談役、非常勤顧問、非常勤参与を務めた。

社長時代には名車といわれた車両の保存を積極的に指示し、佐久間レールパークの開設にも関わった。私的には産業観光の概念を紹介し、全国産業観光推進協議会副会長、日本商工会議所観光小委員長、名古屋商工会議所文化委員長、観光立国推進戦略会議座長代理など多くの観光関連の役職に就いた。公職引退後は趣味団体の鉄道友の会第7代会長を務めた。

2024年(令和6年)12月13日、老衰により93歳で死去。

車両分野の石井幸孝[注 1]、運転業務分野の山之内秀一郎[注 2]と並んで鉄道ファンのJRトップとして知られた。

注[編集]

  1. ↑ JR九州の発足時の社長。
  2. ↑ JR東日本の発足時の副社長、後に会長。

関連項目[編集]