鈴木正男

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鈴木 正男(すずき まさお、1922年7月4日[1] - 2001年10月3日)は、右翼活動家。大東塾不二歌道会代表。影山正治長谷川幸男とともに大東塾を運営し[2]、長谷川と鈴木は影山の両腕的存在だった[3]

経歴[編集]

愛知県岡崎市生まれ。國學院大学文学部国文科卒[4]。1942年3月第三期生として大東塾に入塾。影山正治らの指導を受ける[5]。1943年新国学協会機関誌『ひむがし』編集部員[1]。1943年9月27日、大東塾同人の野村辰夫、準同人の鈴木正男、塾生の竹川哲生東山利一の4人は、花田清輝尾崎士郎三浦義一を批判したため、路上へ呼び出し殴打して神楽坂署に検挙された[6][7]。学徒出陣で陸軍飛行第7戦隊に所属し[4]、大東塾生集団自刃事件から5日後の1945年8月30日に復員[8]

1947年4月「不二奉仕團」の皇居勤労奉仕に参加。1949年「みやこ奉仕團」に改称し、二代目団長に就任(1996年に退任)[1][9]。1948年9月代々木出版部主任。1955年1月不二歌道会常任中央世話人。1961年黒龍倶楽部同人。1965年4月大東会館学生寮寮長[1]。1970年時点で大東塾同人[10]、事務局長[2]。1976年時点で大東塾筆頭同人兼事務局長[5]、不二歌道会常任中央世話人兼事務局長[11]

1979年5月に東京都青梅市の大東農場で大東塾塾長の影山正治が自決し、1980年8月に長谷川幸男が塾長、鈴木正男が塾監となる[12]。1982年4月に塾長の長谷川が病死。『昭和天皇の御巡幸』(展転社、1992年)によると、1982年5月より大東塾・不二歌道会代表[4]堀幸雄『右翼辞典』(三嶺書房、1991年)によると、1986年7月より大東塾代表[12]。財団法人大東会館理事長、伊勢神宮評議員も務めた[4]。1992年の天皇訪中に反対する集会の企画や運営に取り組む[13]。1992年8月7日、加藤紘一官房長官、石原信雄官房副長官は鈴木正男、大原康男高森明勅の3人を衆院第二議員会館に招き、天皇訪中への理解を求めた[14][15]。政府が訪中の閣議決定を延期し、賛成反対両派の有識者を招いて意見を聴いたのは、鈴木らの提案が契機だったという[15]。晩年は「日本を守る国民会議」に参加し、日本会議代表委員を務めた[8]

2001年10月3日[16]、青梅市の大東農場で首を吊って自殺。79歳[8]

著書[編集]

  • 昭和天皇の御巡幸』(展転社、1992年/ダイレクト出版、2024年)
  • 『昭和天皇のおほみうた――御製に仰ぐご生涯』(展転社、1995年)
  • 『支那事変は日本の侵略戦争ではない』(展転社、2002年)

出典[編集]

  1. a b c d 社会問題研究会編『右翼・民族派事典』国書刊行会、1976年、278頁
  2. a b 相田猪一郎『70年代の右翼――明治・大正・昭和の系譜』大光社、1970年、34頁
  3. 相田猪一郎『70年代の右翼――明治・大正・昭和の系譜』大光社、1970年、202頁
  4. a b c d 昭和天皇の御巡幸 展転社
  5. a b 日刊労働通信社編『右翼運動要覧 戦後編』日刊労働通信社、1976年、141頁
  6. 「年譜」『花田清輝全集 別巻 2』講談社、1980年、149-150頁
  7. 堀幸雄『右翼辞典』三嶺書房、1991年、519頁
  8. a b c 安田浩一『「右翼」の戦後史』講談社現代新書、2018年、68-69頁
  9. 西川泰彦「皇居勤労奉仕のこころ」『動向』第1591号、1999年8月
  10. 社会問題研究会編『右翼事典――民族派の全貌』双葉社、1970年、259頁
  11. 社会問題研究会編『右翼・民族派事典』国書刊行会、1976年、210頁
  12. a b 堀幸雄『右翼辞典』三嶺書房、1991年、318頁
  13. ご訪中問題懇話会編『[検証と総括]天皇陛下ご訪中問題』ご訪中問題懇話会、発売:展転社[てんでんブックレット]、1992年、執筆者略歴
  14. ご訪中問題懇話会編『[検証と総括]天皇陛下ご訪中問題』ご訪中問題懇話会、発売:展転社[てんでんブックレット]、1992年、44頁
  15. a b 鈴木計良「政権中枢と右翼・暴力団の癒着――最近の諸事件にみる構造的な実相」『前衛』第627号、1992年12月
  16. 小堀桂一郎「女帝容認論批判」『日本』第55巻第2号(通巻646号)、2005年2月