神永悦也

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神永 悦也(かみなが えつや、1943年 - )は、日本漫画編集者。「秋田書店少女漫画の父」と呼ばれ、『週刊少年チャンピオン』四代目編集長を務めた[1]

経歴[編集]

1943年に誕生する[2]

東京経済大学を卒業した後、1966年に秋田書店へ入社する[2]。『少年チャンピオン』[注釈 1]が創刊された際に編集部に配属された[2]

1974年に少女漫画雑誌『月刊プリンセス』が創刊されると、編集長として異動する[2]。『月刊プリンセス』は、『イブの息子たち』(1975年 - 1979年、青池保子)、『王家の紋章』(1976年 - 、細川智栄子)の連載や、当時は売り出し中だった萩尾望都竹宮惠子大島弓子らの執筆で人気を獲得し、部数を伸ばした[2]

1977年に『月刊プリンセス』よりも下の年齢層を狙った少女漫画雑誌『ひとみ』が創刊されることになり、こちらに異動となる[2]。『ひとみ』が軌道に乗り、50万部を発行するようになった1983年に社長命令で『週刊少年チャンピオン』の四代目編集長を務めることになる[2]。神永自身は断ったが、なにぶん社長命令でもあり、拒否はできなかった[2]。当時の『週刊少年チャンピオン』は1970年代の黄金期を築いた二代目編集長・壁村耐三が病気引退し、三代目編集長・阿久津邦彦の代となっていたが、うまく行っているとは言い難い状況で、社長には神永の少女雑誌での成功体験が脳裏にあったものと考えられる[2]。この当時、週刊少年漫画雑誌界隈では、全体的にもラブコメ路線が強くなっており『週刊少年サンデー』(小学館)が1978年連載開始の『うる星やつら』(高橋留美子)や1981年連載開始の『タッチ』(あだち充)を擁して228万部の大躍進を遂げていた時期であった[2]。『週刊少年チャンピオン』ではラブコメ路線としては『すくらっぷ・ブック』(1980年 - 1982年、小山田いく)、『るんるんカンパニー』(1980年 - 1981年、とり・みき)、『あんどろトリオ』(1981年 - 1982年、内山亜紀)などが連載されていた[2]。10年ぶりに少年漫画雑誌編集に戻ってきた神永としては、こういった作品は「果たして少年漫画なのか?」という思いであった[2]

1983年から『週刊少年チャンピオン』四代目編集長を務めることになったのだが、この年に始まった連載として『大甲子園』(水島新司)、『熱くんの微熱』(立原あゆみ)がある[2]。『大甲子園』は、『週刊少年チャンピオン』で連載していた『ドカベン』をはじめ、他誌で連載していた『球道くん』(1977年 - 1981年)、『一球さん』(1975年 - 1977年)、『ダントツ』(1982年 - 1983年)といった高校野球漫画の登場人物たちが甲子園で激突するという水島新司の野球マンガの集大成とも言える作品である[2]。水島から提示されたタイトル案は『夢甲子園』と『大甲子園』の2つであったが。「夢」という言葉は少女漫画っぽいと、『大甲子園』を推したのは、神永であった[2]

立原あゆみは『月刊プリンセス』、『ひとみ』時代にも神永と付き合いがあった[2]。それまで少女漫画雑誌で描いていた立原であったが、本人は男性である[2]。少年誌でもイケると判断した神永が執筆を依頼し、短編を載せ、連載に至った[2]。立原は後に『本気!』を『週刊少年チャンピオン』に連載することになり、『本気!』は立原の代表作になると共に、『週刊少年チャンピオン』再浮上に貢献することにもなった[2]

また、小説の世界では伝奇ロマン小説がブームとなっていた[3]。神永は1982年に『魔界都市〈新宿〉』で小説家デビューした菊地秀行に声をかけ、エロ劇画誌で描いていた細馬信一と引き合わせ、1985年に『黙示録戦士』を6回連載で掲載[3]。これが好評だったことから、神永が『週刊少年チャンピオン』を離れた後になる1986年から『魔界都市ハンター』の連載が行われることになる[3]。なお、菊池同様に伝奇ロマン小説の旗手である夢枕獏の小説『キマイラ・吼』の漫画化も神永は交渉したが、許可はもらえなかった[3]

1985年の春に壁村耐三が『週刊少年チャンピオン』編集長に復帰し、五代目編集長となる。

神永は少女漫画雑誌に戻り、(就任年数不明)編集局長となり、2008年9月1日の秋田書店定時株主総会・取締役会において取締役に新任した[4]

2011年に秋田書店を退社する[3]

『月刊プリンセス』で連載していた『ぴーひょろ一家』(姫木薫理)のOVA1988年に製作された際には、神永もプロデューサーの1人に名を連ねている。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. 『週刊少年チャンピオン』は、1969年7月15日の創刊当初は隔週刊行で誌名は『少年チャンピオン』だった[2]。1970年6月24日から毎週刊行化し誌名を『週刊少年チャンピオン』に改めている[2]

出典[編集]

  1. 木谷誠 (2020年6月9日). “漫画の神様・手塚治虫の頭を叩いた編集者がいた!?「チャンピオン」になるため奮闘した男たちの物語”. ダ・ヴィンチWEB. KADOKAWA. 2025年11月11日確認。
  2. a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 中野晴行 (2019年3月21日). “マンガ雑誌の黄金時代――1985~95年の編集部を語る 第1回 秋田書店「週刊少年チャンピオン」元編集長・神永悦也 前編”. メディア芸術カレントコンテンツ. 文化庁. 2025年11月11日確認。
  3. a b c d e 中野晴行 (2019年3月21日). “[hhttps://mediag.bunka.go.jp/article/article-14762/ マンガ雑誌の黄金時代――1985~95年の編集部を語る 第1回 秋田書店「週刊少年チャンピオン」元編集長・神永悦也 後編]”. メディア芸術カレントコンテンツ. 文化庁. 2025年11月11日確認。
  4. 秋田書店、神永、村山両氏を取締役に 定時株主総会開く”. 文化通信社 (2008年9月9日). 2025年11月11日確認。

外部リンク[編集]