殉節両雄之碑

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殉節両雄之碑(じゅんせつりょうゆうのひ)は東京都日野市に所在する新選組近藤勇土方歳三の殉節を顕彰する石碑である。

概要[編集]

両雄とは近藤勇土方歳三とを指す。東京都日野市にある高幡不動尊金剛寺境内の石碑である[1] 。旧仙台藩の儒者大槻磐渓が起草し、旧会津藩主の松平容保が篆書、旧幕府典医頭松本良順が書を担当した。全高3メートルの一枚石に碑文が刻まれる。1888年(明治21年)7月に建立された。付近に土方歳三の銅像がある。

建立者[編集]

土方家の親戚である小島為政を筆頭にして、土方の義兄の佐藤俊正(佐藤彦五郎の改名、日野宿名主)、糟谷良循(土方歳三実兄)、土方義弘(土方歳三の甥)、本田定年(谷保土方歳三の親戚)、近藤勇次郎(近藤勇養子)、橋本政直(小野路土方歳三の親戚)及び当時の高幡山金剛寺の住職賢雅和上である。

背景[編集]

1874年(明治7年)8月に政府が「戊辰戦争の際、逆賊の汚名を着せられ戦死した者の祭祀を許す」との官報を公布したため、石碑建立が可能となった。近藤・土方両士の幕府への忠節を讃える顕彰碑であったこと、豪農による自由民権運動の高まりもあり、石碑が完成しても建立の許可は得られなかったようで、改めて1882年(明治15年)に神奈川県令に申請し、ようやく明治21年に建立された。当初は篆額を徳川慶喜揮毫を依頼する予定であったが、佐藤俊正が松本良順を通じ、旧幕臣であり明治以降も徳川家の家令となっていた小栗尚三に申し出た。慶喜は二度に渡る小栗の願い出でに対し明確な返事をしなかった。

所在地[編集]

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