武蔵 (戦艦)
武蔵(むさし)は、大日本帝国海軍が建造した戦艦。大和型戦艦の2番艦である。その名に日本国の旧国名の一つである武蔵国を冠する。太平洋戦争中の1944年10月24日にレイテ沖海戦でアメリカ海軍の航空攻撃により撃沈された。
概要[編集]
武蔵は大和型戦艦の2番艦として、長崎県長崎市の三菱重工業長崎造船所で建造された。1938年3月29日に起工され、1940年11月1日に進水、1942年8月5日に就役した。
その設計は、当時世界最大の主砲である46cm砲を9門搭載し、それまでの戦艦を凌駕する強力な攻撃力と、厚い装甲による強固な防御力を誇った。しかし、建造中に太平洋戦争が勃発し、航空主兵の時代へと戦術が変化していく中で、その巨体と速力の限界が露呈していくことになる。
就役後は連合艦隊の旗艦として、主にトラック諸島を拠点に活動した。1943年には山本五十六連合艦隊司令長官の遺骨を乗せて東京湾に帰還するという任務も果たしている。しかし、その巨体ゆえに燃費が悪く、また当時の日本の燃料事情から、実戦に参加する機会は少なかった。
レイテ沖海戦[編集]
武蔵の最後の戦いは、1944年10月24日にフィリピン沖で発生したレイテ沖海戦である。この海戦において、武蔵は栗田健男中将率いる中央部隊の一翼を担った。
シブヤン海を航行中、武蔵はアメリカ海軍の空母艦載機による激しい航空攻撃に晒された。度重なる爆撃と魚雷攻撃により、武蔵は多数の被弾と浸水に見舞われた。乗員による必死の応急修理もむなしく、武蔵は徐々に傾斜を増していった。
そして、同日19時36分、武蔵は艦首を上げながら転覆し、シブヤン海の水深1,000m以上の海底へと沈んでいった。この時、乗員2,399名のうち、およそ半数にあたる1,023名が武蔵と運命を共にしたとされる。
特徴[編集]
武蔵は、以下のような特徴を持っていた。
- 主砲:九四式45口径46cm砲 3連装3基9門。当時世界最大の艦載砲であり、その威力は絶大であった。
- 防御:舷側最大装甲は410mm、主甲板装甲は200mm。重要区画には当時の技術の粋を集めた防御力を施していた。
- 排水量:基準排水量64,000トン、満載排水量72,809トン。当時の戦艦としては世界最大級であった。
- 速力:最大速力27ノット。この巨体にしては十分な速力を有していた。
艦歴[編集]
- 1938年3月29日:三菱重工業長崎造船所にて起工。
- 1940年11月1日:進水。
- 1942年8月5日:就役。連合艦隊旗艦となる。
- 1943年:山本五十六連合艦隊司令長官の遺骨を乗せて東京湾に帰還。
- 1944年10月24日:レイテ沖海戦においてシブヤン海で撃沈される。
豆知識[編集]
- 武蔵は、その巨体ゆえに、当時世界一重い錨を持っていたとされている。
- 武蔵の建造は、極秘に進められ、資材の運搬や工場への出入りも厳重に管理されていた。
- 武蔵の艦橋は、その高さから「ホテル」と揶揄されることもあったが、これは居住性の良さを表すものではなく、複雑な構造を示唆するものであった。
- 沈没した武蔵は、2015年3月2日にポール・アレン率いる調査チームによってシブヤン海の海底で発見された。
関連項目[編集]
参考書籍[編集]
- 吉村昭『戦艦武蔵』(新潮社、1966年)
- 渡辺洋二『戦艦武蔵 永久保存版』(学習研究社、2005年)
- 歴史群像太平洋戦史シリーズVol.42『戦艦武蔵』(学習研究社、2003年)