梅原多絵
梅原多絵(うめはらたえ、1957年 - )は、1970年頃活躍したロリータモデルである。画家の梅原龍三郎は、祖父である。
経歴[編集]
1957年12月12日[1]、東京都に生まれる。下町で育つ。
1969年11月、写真集『ニンフェット 12歳の神話』出版。川本耕次によると、我が国のロリータヌード写真集はこの本から始まった。ただし、おかずとして企図されたものではなく、当時の「性開放」の潮流という文脈に従って制作されたものらしい[注釈 1][2]。女優の高峰秀子が演出を担当。モデルは出版社が児童劇団への打診やデパートでの物色などで約100人ほど探したが見つからない中、出版社に出入りしている元俳優が、女の子供がいる知人女性(映画撮影所の結髪屋=床山)を紹介した。この女性の子供が梅原だった。娘時代に新劇の女優だった母・ナミから話を聞いた梅原はいとも簡単に承諾したという[3]。なお、梅原を高峰に紹介した元俳優とは、東映児童演劇研修所次長の城島六郎である[1]。
撮影は、1969年7月から8月の夏休み期間に、軽井沢・蓼科・白樺湖・九十九里浜で行われた。当初は信州一円での撮影を予定していたが、同じような風景ばかりになるため九十九里浜での撮影を追加した。撮影時、初潮も迎えていなかった。本人によると、裸になるのは恥ずかしくなかったが、自身の裸が綺麗かどうかは分からない[3]。軽井沢は人が多いので、早朝に撮影したり、撮影場所を探すために色々回ることとなった。 撮影時の指導をお願いした高峰秀子の別荘は梅原龍三郎の別荘の隣にあったため、梅原龍三郎の別荘内でも撮影をさせてもらうことになった。撮影には梅原龍三郎も立ち会い、「こっちから撮れ」などと指図するのでウザがられた[2]。 なお、梅原多絵の梅原は、梅原龍三郎の別荘内で撮影させてもらったことから、編集者の篠原啓介が名を借りてモデル名として使ったものである。(梅原龍三郎と梅原多絵の間に血縁関係はない)
12月8日、『ニンフェット 12歳の神話』が店頭に並ぶと、最初の二日間で初版3万部は売り切れてしまった[4]。ノーベル書房に届いたファンレターは1000通に達した。ノーベル書房に直接本書を買いに来た人も50人くらいいた[1]。
ロリータモデルとして注目された後、1970年1月より東映児童演劇研修所に入る。以前から女優かモデルになりたいと意向を示していた梅原は、この写真集がきっかけで女優になる決心を固めた、とする報道もある[1][5]。
1971年1月1日、『ニンフェット 12歳の神話』の再版『エウロペ 12歳の神話』出版。
テレビ出演のオファーも何度かあったが、本人の素質を大事に育てたいという劇団の方針により断る。ドラマ初挑戦は『むらさき心中』である。1972年1月10日 - 4月7日、CX系列で放送されたドラマ『むらさき心中』に出演。渡辺美佐子の息子・小林洋樹と心中する高校生を演じる[注釈 2]。この頃、身長158センチの中学校3年生。学校では体操部に所属[6]。「知らない人からラブレターをもらったこともあるし、心中の意味だってわかる」という趣旨の発言が残っている[5]。
1977年8月25日、『ニンフェット 12歳の神話』の再版『エウロペ 12歳の神話 新装版』出版。 梅原多恵は、アテネ・フランセ等で働いた後、1978年に結婚。その結婚式には、剣持加津夫は出席し、高峰秀子も祝電を送っていたと、『エウロペ 12歳の神話2』の後書きに剣持加津夫が書いている。
写真集[編集]
- 剣持加津夫(写真), 高峰秀子(文)『ニンフェット 12歳の神話』(ノーベル書房、1969年11月。NCID:BA35092177)
- 『12歳の神話 デラックス版』(ノーベル書房、1970年2月)
- 『エウロペ 12歳の神話』 (三星社書房、1971年1月1日。ASIN:B085XHNLC8)
- 『エウロペ 12歳の神話 新装版』 (ブロンズ社、1977年8月25日。NCID:BC04462877)
- 『エウロペ 12歳の神話2』(ブロンズ社、1978年12月)
- 『ANTIQUE少女写真館』(1987年3月、映画フィルム収集家・杉本五郎の作品集。「メイキング・オブ12歳の神話」が掲載されている)
メディアミックス[編集]
- 写真集イメージソング『12歳の神話』(歌:堀江美都子)
- アニメ映画『12歳の神話』(製作:露木サブロー(杉本五郎の別名義)、脚本・撮影・演出:杉本五郎、梅原多絵のスチール写真・動画とアニメを合成した幻想アニメ)
雑誌[編集]
- 内田康夫「(あなたは,ここまでわりきれますか)ヌードになった少女たち」『週刊少女フレンド』1970年12月15日号 8(57)(講談社)、pp135-139、DOI:10.11501/1830111
- 「梅原多絵ちゃんが〝女優サン〟に」『週刊平凡』11(51)(1969年、平凡出版)、pp42-43、DOI:10.11501/1851104
- 『明星』 19(4)(1970年4月、集英社)、DOI:10.11501/1721821
- 「帰らざる裸身の少女」、『週刊朝日』第76巻第27号、朝日新聞社、1971年6月25日、 149-152頁。
- 「12歳! ヌードの天使梅原多絵ちゃん」、『TEEN LOOK』第3巻第7号、主婦と生活社、1970年、 。
その他[編集]
堀江美都子のシングル「12歳の神話」は、この写真集のイメージソングである。カップリング曲は「大人の世界」。1970年3月10日に日本コロムビアから発売された。ジャケットには梅原のヌード写真も使用されていたが、現在では無理。
- 収録曲
- 12歳の神話(作詞:篠原啓介・丘灯至夫。作曲:和田香苗)
- 大人の世界(作詞:丘灯至夫。作曲:和田香苗)
考察[編集]
梅原龍三郎(1888年3月9日 - 1986年1月16日)は2人の子を残した。長女・
紅良は嶋田三郎と結婚し苗字も変わっている。紅良の子・嶋田啓作は歌人の木下利玄の孫の久仁子と結婚し、その娘の嶋田華子は東京大学大学院在学中、梅原龍三郎を研究する。梅原多絵が本名であると仮定して(危うい仮定。ただし、この時期のロリータは芸術だから恥ずかしくないという建前のもと、本名で活動することもあった)紅良の子ではないような気がする。
成四は、苗字が変わったという記録はない。しかし子を残したという記録もない。1957年没ということは多絵を産むとしてギリギリの日程だが、この方面からの今後の研究が俟たれる。・・・などと言ってると、2024年に急展開があった。誰かは知らぬがtwimgに古い新聞記事をアップロードしてくれたのだが、それによると黒田多絵が本名であるという[8]。『ニンフェット 12歳の神話』撮影時は梅原多絵名義で活動していた。だが、梅原多絵は芸名である可能性を見落としていた。成四の妻がシングルマザーになった際、多絵の名字が黒田に変わった可能性もある。成四の妻について情報が少なく、今はこれ以上のことは言えない。
なお、1971年の『週刊新潮』には両親と一緒に写っている写真が掲載されている[9]。これがやらせではないと仮定して、成四の妻が黒田某と再婚したのかもしれない。
実際は、梅原多絵の「梅原」は、梅原龍三郎の別荘で撮影させてもらった縁で、編集者の篠原啓介が名を借りてつけたものであって、梅原多絵と梅原龍三郎の間に血縁関係はない。梅原多絵の母親は、新劇の女優経験を持つ、映画制作会社に所属している髪結屋(床山)であり、梅原龍三郎の娘・紅良ではない。また、ノーベル書房の編集者・篠原啓介は、撮影時に梅原多絵の両親は健在だったと述べているため、梅原多絵の父親として、1957年に死去している梅原龍三郎の息子・成四は該当しない。
その他[編集]
本稿の初版立項者はEnpediaを編集するために児童ポルノを所持しているのではないか、といういらぬ心配をする人がいるかもしれないのでその点をはっきりさせておく。Enpediaにおけるロリータ文化探求の第一人者[要出典]である初版立項者であるが、意外なことに児童ポルノは一切所持していない。単純所持違法化のタイミングですべて処分した。現在は図書館の文献を主に使用してロリータ文化の記事を編集する。近くの公共図書館に国会図書館の遠隔複写を受け取りに行くときも、鋏を持参する。なぜか? 児童ポルノに該当しそうな写真が含まれていたらその場で切って捨てるためである。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
- 川本耕次 『ポルノ雑誌の昭和史』 筑摩書房〈ちくま新書927〉、2011年10月10日。ISBN 978-4-480-06631-2。
- 「十二歳ヌード・多絵ちゃんの二年後」、『週刊新潮』第16巻第50号、新潮社、1971年12月18日、 151-153頁、 。
- 「12歳の少女のヌード写真集」、『週刊平凡』第11巻第48号、平凡出版、1969年、 55頁、 。
- 「●あの12歳のヌードモデル 梅原多絵ちゃんが〝女優サン〟になる」、『週刊平凡』第11巻第51号、平凡出版、1969年、 42-43頁、 。