市村鉄之助

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

市村鉄之助(いちむらてつのすけ、1854年(安政元年)-1873年(明治6年)は幕末の新選組の隊士である。

経歴[編集]

市村鉄之助は美濃大垣藩士・市村半右衛門の三男として生まれる。兄に市村庄太郎(早世)、市村鋠之助(市村辰之助)がいる。1858年(安政5年)5月20日、父の市村半右衛門は「永暇」を出される[1]。市村鉄之助が5歳のときであった。市村家は名古屋の「広井新屋舗江川通り柳橋上」に移り住んだ[2]1860年(万延元年)5月以後は江州国友村(現滋賀県長浜市)に移り住む[2]1863年(文久3年)市村半右衛門は亡くなる。市村鉄之助は10歳であった。

新選組[編集]

1867年秋、市村鋠之助(市村辰之助)と市村鉄之助は新選組に加入する。市村鉄之助は14歳であった。 板橋で近藤勇が捕縛されたあとは市村鉄之助は土方歳三に従い会津、仙台、箱館と転戦する。1869年5月26日(明治2年4月15日)は敗勢が濃厚となった頃、土方歳三は市村鉄之助に箱館脱出を命た。当初は五稜郭からの脱出を鉄之助は拒んだが、土方から「我が命令に従わずば、今討ち果たすぞ」[3]と厳命され、脱出することにした。『両雄士伝補遺』に「共ニ必死ヲ期シヲ憫ミ懇々後事ヲ遺嘱シ、我写影及鬢髪数根並絶命ノ和歌一首ヲ斎シ」と書かれる。2カ月を要して7月下旬、日野宿佐藤彦五郎家に到着する。市村鉄之助は「使いの者の身の上、頼み申し上げ候 義豊」と書かれた紙片と共に土方歳三の写真、遺髪、辞世の和歌などを佐藤彦五郎に引き渡した。

その後[編集]

土方の遺品を届けた市村鉄之助が匿われた部屋が日野宿本陣にあるとされる。 全昌寺に市村家の親族が1873年(明治6年)11月16日に亡くなったという記録がある。市村鉄之助のことである可能性がある。一説に美濃大垣の故郷に戻り、西南戦争が起きると、鹿児島で西郷隆盛軍に加わり戦死したとも伝わる。また一説では、兄の辰之助の許で同居していたが、1872年(明治5年)2月に兄の市村鋠之助(市村辰之助)が病没したあと、その9ヶ月に病死したともされる[4]。享年19歳。

参考文献・注[編集]

  1. 野田雅子(2003)「市村鉄之助」『新選組銘々伝』新人物往来社
  2. a b 『市村家譜』古島とき子蔵
  3. 佐藤あきら(1972)『聞きがき新選組』KADOKAWA(新人物往来社)』
  4. あさくら ゆう(2009)『慶応四年新撰組隊士伝』崙書房