南海電気鉄道労働組合
テンプレート:労働組合 南海電気鉄道労働組合(なんかいでんきてつどうろうどうくみあい)は株式会社NANKAIの労働組合である。
日本私鉄労働組合総連合会(私鉄総連)に加盟している。
解説[編集]
株式会社NANKAIからの出向社員が過半数を超えているグループ会社(南海電気鉄道、シーエス・インスペクターなど)においても、過半数代表者を南海電気鉄道労働組合としている。
設立は1947年(昭和22年)であるが、前身は近畿日本鉄道難波営業局労働組合であり、1945年(昭和20年)12月23日に設立されている。
組合員数は合理化により減少傾向であったが、2025年(令和7年)に泉北高速鉄道を合併したことにより組合員数が2500人から400人ほど増加し、約2900人となっている。
沿革[編集]
第二次世界大戦後、旧南海鉄道線(当時は近畿日本鉄道難波営業局)が受けた戦災は甚大であり、車両の被害は電車・貨車合わせて166両、うち電車が約60両と記録されている。また、主要駅も十数駅が焼失するなど、施設面でも深刻な損害を受けた。
戦時中の南海線は、多奈川線をはじめとして軍需輸送の重要な役割を担っており、そのためしばしば米軍戦闘機の攻撃対象となった。実際に、多奈川線を走行中の列車が機銃掃射を受けた事例も確認されている。また、大阪市・堺市への空襲では駅舎や車庫が被害を受け、さらに資材不足により車両や線路の修繕が困難を極めた。
この状況は「南海が国鉄からまくらぎを借りて必死に交換したが、2日に1回はどこかで脱線が発生していた」「蒸気機関車と貨車を用いて旅客輸送を行った」といった記録が残されており、終戦直後の南海の被災状況は私鉄の中でも最悪であったとされる。
戦後、近畿日本鉄道は復興計画を策定したが、旧関西急行電鉄の各路線にその重点置かれ、深刻な被害を受けた旧南海鉄道の復旧は後回しにされた。
そのような状況のなか、1945年(昭和20年)12月23日、近畿日本鉄道難波営業局労働組合が発足した。翌1946年(昭和21年)には南海分離を求める運動が顕在化し、同年秋頃から労働闘争が本格化した。1947年(昭和22年)2月に開催された労使による経営協議会において、新南海への分離方針が示され、同年6月1日付で近畿日本鉄道難波営業局と天王寺営業局の大阪軌道線[注 1]は南海電気鉄道株式会社[注 2]へ事業譲渡された。
この南海分離において特筆されるべき点は、会社側(近鉄側)からではなく労働組合側(南海側)から、南海分離の案が出てきている事である。
当時は課長以下、区長以下が組合員となっており、旧南海鉄道社員の大多数が難波営業局労働組合の組合員であったことが分離闘争に拍車をかけたと考えられる。
近年の出来事[編集]
2017年、南海フェリーにおいて新造船の建造が計画された際、同社社長は南海電気鉄道労働組合を訪問し、当時私鉄総連から輩出されていた交通政策担当の国会議員森屋隆の紹介を依頼した。
これを受け、交通網の維持および災害時における和歌山県、徳島県の海上輸送確保の必要性を踏まえ、本来であれば労働者側立場と使用者側立場である双方が垣根を超え、南海フェリーと南海電気鉄道労働組合が共同で陳情を実施するという異例の対応がとられた。
その結果、新造船建造に対する補助金の交付が決定され、和歌山 - 徳島航路の維持につながった。
脚注[編集]
- 注