初春型駆逐艦
初春(はつはる)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。初春型駆逐艦の1番艦である。艦名は「初春」で、新春の季語である。
概要[編集]
「初春」は、ロンドン海軍軍縮条約下で建造された、日本海軍の駆逐艦である。従来の特型駆逐艦の制約から脱却し、より小型の船体で同等以上の兵装を搭載するという困難な要求の下で設計された。このため、公試において船体強度や復原性の問題が露呈し、竣工後に大規模な改善工事(友鶴事件・第四艦隊事件後の改善工事)を要した。
艦歴[編集]
建造から竣工まで[編集]
「初春」は、1931年(昭和6年)5月7日に佐世保海軍工廠で起工された。 1933年(昭和8年)2月27日に進水。 1933年(昭和8年)9月30日に竣工し、第二水雷戦隊・第二駆逐隊に編入された。
友鶴事件と第四艦隊事件[編集]
竣工後、「初春」は「友鶴事件」(1934年)と「第四艦隊事件」(1935年)という二つの重大な事故を経験する。これらの事故は、従来の日本海軍艦艇設計における復原性不足と船体強度不足を明らかにし、「初春」を含む当時の艦艇群に大規模な改善工事を施すこととなった。 「初春」はこれらの事件を受けて、1935年(昭和10年)から1936年(昭和11年)にかけて、船体の重心降下、艦橋構造物の縮小、一部兵装の撤去といった大規模な改装工事を受けた。これにより、当初の設計よりも大幅に重量が増加し、速力も低下した。
太平洋戦争[編集]
太平洋戦争開戦時、「初春」は第二水雷戦隊・第二駆逐隊に所属し、南方作戦に従事した。 1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃と同時に開始されたフィリピン侵攻作戦や蘭印作戦に参加。 1942年(昭和17年)にはミッドウェー海戦に参加。 1943年(昭和18年)以降は、ソロモン諸島方面での輸送任務(鼠輸送)や船団護衛に従事することが多くなる。 1943年(昭和18年)11月13日、ブーゲンビル島沖での輸送任務中に、アメリカ軍機の空襲を受け損傷。その後、修理と同時に対空兵装の強化が行われた。 1944年(昭和19年)にはレイテ沖海戦に参戦。 1944年(昭和19年)11月13日、マニラ湾内においてアメリカ海軍機の空襲を受け被弾。浸水により着底した。 1945年(昭和20年)1月14日、マニラ湾で投棄処分された。
歴代艦長[編集]
- 石戸勇三 少佐:1933年(昭和8年)9月30日 - 1934年(昭和9年)11月1日
- 白石長義 少佐:1934年(昭和9年)11月1日 - 1935年(昭和10年)10月31日
- 古賀秀一 少佐:1935年(昭和10年)10月31日 - 1936年(昭和11年)12月1日
- 山本雄二 少佐:1936年(昭和11年)12月1日 - 1938年(昭和13年)12月1日
- 木村昌福 少佐:1938年(昭和13年)12月1日 - 1939年(昭和14年)10月15日
- 宮内新一 少佐:1939年(昭和14年)10月15日 - 1940年(昭和15年)10月15日
- 鈴木保 少佐:1940年(昭和15年)10月15日 - 1941年(昭和16年)9月10日
- 瀬戸山安秀 少佐:1941年(昭和16年)9月10日 - 1942年(昭和17年)9月25日
- 杉原与四郎 少佐:1942年(昭和17年)9月25日 - 1943年(昭和18年)10月10日
- 藤原幹 少佐:1943年(昭和18年)10月10日 - 1944年(昭和19年)1月20日
- 佐藤賢治 少佐:1944年(昭和19年)1月20日 - 1944年(昭和19年)11月13日(戦死)
豆知識[編集]
「初春」は、その特徴的な艦橋構造と、初期の日本海軍駆逐艦としては珍しい魚雷発射管の配置(中心線上に3連装発射管を2基装備し、魚雷の再装填装置を持つ)で知られている。これは限られた船体サイズで最大限の攻撃力を追求した結果だが、後の改修で一部兵装の撤去を余儀なくされた。
関連項目[編集]
参考文献[編集]
- 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』(第一法規出版、1995年)
- 雑誌『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦 第10巻 駆逐艦I』(光人社、1990年)
- 木俣滋郎『日本駆逐艦戦史』(光人社NF文庫、2000年)
- 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』(KKベストセラーズ、1994年)