日本海軍 特型潜水艦 伊四〇〇
伊号第四百潜水艦(いごうだいよんひゃくせんすいかん)は、大日本帝国海軍の潜水艦。特型潜水艦のネームシップである。第二次世界大戦中に建造された潜水艦としては世界最大級であり、特殊攻撃機「晴嵐」を3機搭載する能力を持っていた。
概要[編集]
伊号第四百潜水艦は、第二次世界大戦中の日本海軍が計画・建造した伊四〇〇型潜水艦の一番艦である。その目的は、従来の潜水艦では到達困難な遠隔地、特にアメリカ合衆国本土に奇襲攻撃を行うことにあった。本艦の最大の特徴は、格納筒に特殊攻撃機「晴嵐」を3機搭載し、発進・収容できる能力を有していたことである。これは、航空母艦のような役割を潜水艦に持たせるという、当時としては画期的な構想に基づいていた。
建造[編集]
伊四〇〇の建造計画は、1942年(昭和17年)のミッドウェー海戦での敗北後、連合国に対する奇襲的な反撃手段として、山本五十六連合艦隊司令長官の発案により具体化したとされる。当初は多数の建造が計画されたが、戦局の悪化と資材不足により、最終的には伊四〇〇型として3隻(伊四〇〇、伊四〇一、伊四〇二)が完成するにとどまった。
伊四〇〇は呉海軍工廠で建造され、1943年(昭和18年)1月18日に起工。1944年(昭和19年)1月30日に進水し、同年12月30日に竣工した。建造は極秘裏に進められ、その存在は日本国内でも一部の軍関係者しか知られていなかった。
設計と性能[編集]
伊四〇〇型潜水艦は、全長122m、全幅12mという当時としては破格の巨体を有していた。これは、長大な航続距離と複数の航空機を搭載するための必然的な結果であった。搭載された「晴嵐」は、分解された状態で格納筒に収められ、浮上後に短時間で組み立てて発進することが可能であった。航空機のカタパルト射出装置も装備されており、迅速な発艦が図られた。
武装としては、53cm魚雷発射管8門(艦首6門、艦尾2門)、14cm単装砲1門、25mm三連装機銃複数基を装備し、航空機攻撃だけでなく、対水上戦闘能力も有していた。水中速力は低速であったものの、長大な航続距離を生かして太平洋を横断し、遠隔地への攻撃を行うことが期待された。
運用[編集]
竣工後、伊四〇〇は連合艦隊直属の第六艦隊第十一潜水戦隊に編入され、その後第七潜水戦隊に配属された。1945年(昭和20年)に入ると、ウルシー環礁のアメリカ海軍艦隊に対する攻撃、いわゆる「嵐作戦」が計画された。これは「晴嵐」による特攻攻撃を主とするものであったが、作戦決行直前に中止された。
次に計画されたのは、パナマ運河に対する攻撃であった。これも「晴嵐」による爆撃を想定していたが、こちらも作戦中に終戦を迎えたため、実行されることはなかった。
終戦とその後[編集]
1945年(昭和20年)8月15日の終戦後、伊四〇〇はポツダム宣言受諾に伴い武装解除され、アメリカ海軍に接収された。アメリカ軍は、その巨大な船体と航空機搭載能力に強い関心を抱き、詳細な調査を行った。
調査の後、伊四〇〇は日本の技術が外部に流出することを恐れたアメリカ軍によって、1946年(昭和21年)5月29日にハワイ沖で魚雷により撃沈された。その正確な沈没位置は長らく不明であったが、2005年にハワイ大学の研究チームによって、オアフ島南西沖水深約700mの海底で発見された。
豆知識[編集]
- 伊四〇〇型潜水艦は、その設計思想から「潜水空母」と称されることがある。
- 伊四〇〇の艦橋は、レーダー対策として木製であったという説があるが、これは誤りで、木製部分は大戦末期の資材不足による代替材料が使用されたためである。
- 搭載機の「晴嵐」は、特殊攻撃機でありながらも、当初は魚雷攻撃も可能な設計であった。
関連項目[編集]
参考文献[編集]
- 木俣滋郎『日本潜水艦戦史』光人社、1993年。
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』光人社、1990年。
- 歴史群像太平洋戦史シリーズVol.17『伊号潜水艦』学習研究社、1998年。