ローマ皇帝一覧/テオドシウス朝
この記事ではローマ帝国及び西ローマ帝国の歴代皇帝(テオドシウス1世からウァレンティニアヌス3世まで)を解説する。
テオドシウス1世[編集]
- Theodosius I the Great
- 本名:フラウィウス・テオドシウス・アウグストゥス
- 在位:379 - 395
347年1月11日、現在のスペインで有力な将軍の子として誕生。父の死後は属州モエシアの司令官を務めていたが、378年に東帝ウァレンスがゴート族との戦闘で戦死すると、西帝グラティアヌスにより新たな東帝に任じられた。テオドシウス1世は即位後直ちに西ゴート族の侵入に対処し、382年に和平を結んでドナウ川地域に一時的な安定をもたらした。388年、ウァレンティニアヌス2世とマグヌス・マクシムスの内紛に乗じて西方へ侵攻し、ウァレンティニアヌス2世を傀儡とすることで東西両方での支配を確立した。熱心なキリスト教徒であったテオドシウス1世は異端であるアリウス派の排撃を進め、ミトラ教など他の宗教への圧力も強めた。また、390年にテオドシウスの軍がテッサロニキで住民を虐殺する事件が発生し、激怒したミラノ司教に破門され たことで公開懺悔を行っている。392年、西帝ウァレンティニアヌス2世が変死。後を継いだエウゲニウスは多神教の復権を試みるもテオドシウス1世に敗れ394年に処刑された。障壁を全て排したテオドシウス1世は満を持してキリスト教を国教化した。これによりオリンピックを含む異教の儀式は全て廃止となったほか、各地で偶像含む宗教施設の破壊が行われた。395年1月17日、息子のアルカディウス(東帝)とホノリウス(西帝)に後事を託し崩御した。享年48。これ以降ローマ帝国は完全に東西に分裂することとなり、再び統一されることはなかった。
ホノリウス[編集]
- Honorius
- 本名:フラウィウス・アウグストゥス・ホノリウス
- 在位:393 - 423
384年9月9日、テオドシウス1世の次男として生まれる。394年に西帝エウゲニウスは父帝に敗れ処刑されると、僅か9歳で新たな西帝に立てられた。その4ヶ月後にテオドシウス1世が死去し、ローマ帝国は兄アルカディウスとホノリウスが分担する形で東西で分割された。ホノリウスは歴代屈指の暗君とされ、即位後は親戚に当たるヴァンダル系の将軍スティリコに政務を押し付け、自身はラヴェンナの宮殿に引き篭もった。スティリコは蛮族の侵入を相次いで撃退し、「イタリアの保護者」として人気を集めた。ところが408年、ホノリウスはあろうことか大臣オリュンピウスの諫言を信じてスティリコを処刑してしまう。結果として410年にアラリック1世率いる西ゴート軍がローマに雪崩れ込み、3日に渡って略奪される事態となった。なお、ローマ劫掠の報を聞いたホノリウスは自身が飼っていた「ローマ」という鶏が奪われたと勘違いしたという逸話がある(真偽不明)。423年8月15日に38歳で崩御。
コンスタンティヌス3世[編集]
- Constantinus III
- 本名:フラウィウス・クラウディウス・コンスタンティヌス
- 在位:409 - 411
生年不明。407年、ホノリウスを見限ったブリタンニア軍団に新皇帝として擁立され、ガリア・イスパニアを勢力化に置いた。当初はスティリコ率いるローマ正規軍相手に苦戦するも彼の処刑後は形勢を逆転させ、409年にホノリウスに共同皇帝として認められた。ところがこれを境に身内の離反が相次ぎ、411年に拠点のアルルをコンスタンティウス3世に包囲され、投降して捕虜となった。助命される約束だったが、ラヴェンナへの移送中に家族もろとも斬首された。
コンスタンティウス3世[編集]
- Constantius III
- 在位:421
生年不明。優秀な将軍で、西ゴート族やコンスタンティヌス3世との戦いで武功を挙げた。喜んだホノリウスは妹のガッラをコンスタンティウスに嫁がせ、421年に共同皇帝に指名したが、東帝のテオドシウス2世はこれを認めなかった。激怒したコンスタンティウス3世はコンスタンティノープル遠征の準備に取り掛かったものの、出発前の9月2日に急死した。
ヨハンネス[編集]
- Iohannes
- 本名:ヨハンネス・アウグストゥス
- 在位:423 - 425
生年不明。行政長官で、ホノリウス死後に皇帝を僭称した。ウァレンティニアヌス3世を担いだ東ローマの討伐軍が攻め込んでくるとフン族に援軍を要請するも間に合わず敗北。425年夏に屈辱を与えられた後処刑された。
ウァレンティニアヌス3世[編集]
- Valentinianus III
- 本名:フラウィウス・プラキディウス・ウァレンティニアヌス
- 在位:425 - 455
419年7月2日に生まれる。父はコンスタンティウス3世、母はテオドシウス1世の娘ガッラ。425年10月23日、ヨハンネスを倒した従兄弟の東帝テオドシウス2世によって僅か6歳で西帝に任命された。ウァレンティニアヌスはホノリウスと同様に無能な皇帝であり、ガッラ、継いで将軍アエティウスの専横を許した。領土の縮小も進み、ヴァンダル族の攻勢によりイスパニアやガリアの大半とアフリカを喪失した一方、北方ではアエティウスが451年にカタラウヌムの戦いでフン族のアッティラ大王を撃退する大戦果を挙げた。ところがウァレンティニアヌス3世は皇女の結婚を巡るトラブルから454年にアエティウスを誅殺してしまう。この愚行は「左手で自身の右手を切り落とした」と非難され、ウァレンティニアヌス3世も455年3月16日にアエティウスの部下の手で斬殺された。享年35。彼の死により西ローマに於けるテオドシウス朝は断絶した。