ローマ皇帝一覧/四皇帝の年
この項目では、ローマ帝国の歴代皇帝(ガルバからドミティアヌスまで)を解説する。
ガルバ[編集]
- Galba
- 本名:セルウィウス・スルピキウス・ガルバ
- 在位:68 - 69.1
紀元前3年12月24日に生まれる。名門貴族の家の出で、ガルバも元老院議員として執政官や属州アフリカの総督を歴任した。68年、ネロ帝への反乱が起き彼が自害すると人望の厚いガルバが元老院から新皇帝に選出された。しかし今度はネロ派の軍隊による反乱を起き、69年1月15年、ガルバは後継者問題で対立していたオトに暗殺された。享年71。
オト[編集]
- Otho
- 本名:マルクス・サルウィウス・オト
- 在位:69.1 - 69.4
32年に生まれる。誕生日は分かっていない。エトルリア系の貴族出身で、若い頃はネロと親しかった。やがてネロと対立するようになり、属州ルシタニア(現ポルトガル)の総督職に左遷された。ガルバがネロを倒して帝位につくとこれを支持し、ガルバに自身を後継者に指名するよう要求したが拒否されたため、彼を殺害しオトが新皇帝に即位した。しかしゲルマニアで反乱を起こしていたウィッテリウスが自らの帝位を主張してローマへ迫っており、勝算がないと見込んだオトは自害して果てた。享年36。
ウィッテリウス[編集]
- Vitellius
- 本名:アウルス・ウィテッリウス・ゲルマニクス
- 在位:69.4 - 69.12
15年9月7日または9月24日に生まれる。気前の良い性格で人気があり、順調に出世を重ねた。68年、ガルバが帝位につくとゲルマニア軍団の司令官の地位に左遷された。ガルバ帝は兵士への俸給支払いを渋ったため反発を買い、1月2日にウィッテリウスがゲルマニア軍団に対立皇帝として擁立された。ローマ中の軍隊を味方につけたウィッテリウスは連戦連勝であり、4月14日、ガルバ帝の後を継いだオト帝が自害したことでローマ皇帝に即位した。しかし、美食家だったウィッテリウスは贅沢三昧な日々を送ったため市民の反発を買い、同年末にウェスパシアヌスが反乱を起こすと捕らえられ、12月22日に惨殺された。享年54。
ウェスパシアヌス[編集]
- Vespasianus
- 本名:ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス
- 在位:69.12 - 79
9年11月17日に生まれる。軍人としてキャリアを積み、ブリタニアやゲルマニアを転戦した。66年にパレスチナで暴動が起こると討伐軍の司令官に任命され、ユダヤ人の反乱勢力を鎮圧した。68年のネロ帝死後ローマ帝国は混乱状態に陥り、シリアやエジプトの軍団の支持を得たウェスパシアヌスは帝位を主張して反乱を起こした。ウィッテリウス帝が差し向けた軍隊を各地で破り、69年12月末にウィッテリウスを処刑。翌70年にはローマ入城を果たした。なお、69年はガルバ→オト→ウィッテリウス→ウェスパシアヌスの4人が次々と皇帝の座についたため「四皇帝の年」と呼ばれる。
即位後のウェスパシアヌスは緊縮財政と徴税制度の強化により財政の再建を図る一方、75年にはコロッセオの建設を開始した。彼は便所税を導入したことでも有名である。79年6月23日に死去。長男のティトゥスが後を継いだ。
ティトゥス[編集]
- Titus
- 本名:ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス
- 在位:79 - 81
39年12月30日に生まれる。父ウェスパシアヌス帝の死去により39歳で帝位を継承。穏健な統治を敷き、市民や元老院からの人気は高かった。また、ポンペイのヴェスヴィオ火山が噴火した際は積極的に救済事業に取り組んだ。81年9月13日、熱病により死去した。享年41。弟ドミティアヌスに毒殺されたとの説もある。
ドミティアヌス[編集]
- Domitian
- 本名:ティトゥス・フラウィウス・ドミティアヌス
- 在位:81 - 96
51年10月24日に生まれる。政治的な官職には就いていなかったが、兄ティトゥスが病死したため皇帝の位を継ぐこととなった。当初は兄と同じく善政に勤めていたが、次第に暴君化して恐怖政治を行い、多くの元老院議員を処刑・追放した。他方、公序良俗の引き締めや宗教的寛容政策も打ち出し、自らの神格化も試みた。96年9月18日に宮廷内で元老院の刺客に暗殺された。享年44。元老院に選出されたネルウァが新皇帝となり、ローマ帝国は最盛期を迎えることとなる。