ローマ皇帝一覧/五賢帝

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この記事ではローマ帝国の歴代皇帝(ネルウァからコンモドゥスまで)を解説する。

ネルウァ[編集]

Nerva
本名:マルクス・コッケイウス・ネルウァ
在位:96 - 98

35年11月8日イタリアのナルニで生まれる。由緒正しい貴族の家柄の出身であり、詩作と法律への造詣が深かった。ネロ帝やドミティアヌス帝による粛清の嵐が吹き荒れる中でも冷静な判断力と慎重な態度で元老院議員の地位を守り抜いた。96年にドミティアヌス帝が暗殺されると、その性格と能力を評価され、63歳にしてローマ帝国の新皇帝に指名された。ネルウァは政治犯の釈放や減税による貧困層の救済に力を入れた。98年1月27日に62歳で死去。養子にしていたトラヤヌスが帝位を継いだ。なお、彼以降の5人の皇帝の治世下でローマ帝国が最盛期を迎えたため、後に五賢帝と称されることになる。

トラヤヌス[編集]

Trajan
本名:マルクス・ウルピウス・ネルウァ・トラヤヌス
在位:98 - 117

53年9月18日、属州ヒスパニアで元老院議員の家系に生まれる。トラヤヌスは軍人としてシリアに配属され、優れた指揮能力で頭角を表した。96年、ネルウァ帝の命によりゲルマニア総督に就任し、その力量を認められ彼の養子となり、後継者に指名された。98年にネルウァが死去したことでローマ皇帝に即位、軍からの圧倒的支持を背景に積極的な対外政策を展開した。101年よりダキア(現ルーマニア)への親政を行い併合した。この際大勢のローマ人がダキアに移住したことで、ルーマニアでは現在もラテン系のルーマニア語が話されている。また2世紀初頭に現在のシナイ半島付近に存在したナバテア王国に出兵、属州アラビアとして支配下に組み入れた。113年、アルメニアの領有を巡ってパルティアとの戦争が始まり、トラヤヌス軍は各地で大勝。メソポタミア北部を制圧し、ペルシア湾沿岸まで到達した。しかし、今度は急激な領土拡張の歪みで各地で反乱が勃発した。トラヤヌスはユダヤ人の反乱鎮圧のための遠征中、体調を崩し118年8月8日に死去した。姪の婿のハドリアヌスが次の皇帝となった。因みに、トラヤヌスは初のイタリア半島以外出身の皇帝である。

ハドリアヌス[編集]

Hadrian
本名:プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス
在位:117 - 138

76年1月24日、属州ヒスパニアで生まれる。幼少期はギリシア文化に熱中し、「ギリシア人」の渾名で呼ばれていたという。軍隊の中で着実に出世を重ね、99年に皇帝トラヤヌスの姪と結婚した。117年、トラヤヌス帝は死の床でハドリアヌスを自身の養子に迎え、帝位継承者に指名した。このトラヤヌスの[[遺言\]については一次資料が一切ないため信憑性が怪しまれているが、結果的にハドリアヌスの即位は帝国に安寧をもたらした。

皇帝の座についたハドリアヌスは内政重視へと方針を転換し、メソポタミアやブリタニア北部などの過剰な領土を放棄した。これにより国境警備の軍隊の駐留費を削減することができた。ハドリアヌスは2回にわたる帝国全土への視察旅行を行い、ブリタニアではハドリアヌスの長城を建設し、エジプトではナイル川の治水工事を行わせるなど各地の実情に合わせた政策を断行した。また荒廃したアテネの復興を支援したほか、パンテオンの再建により文化の復興に努めた。なお、日本の漫画作品テルマエ・ロマエは彼の時代が舞台である。

しかし、130年に寵愛していた美少年アンティノウスがナイル川で溺死して以降は治世に暗雲が立ち込めるようになる。ハドリアヌスは敵対する元老院議員を処刑したこともあり、元老院との関係は悪かった。晩年は水腫による激痛に苦しむようになり、138年7月10日に死去した。享年62。養子のアントニヌス・ピウスが後を継いだ。

アントニヌス・ピウス[編集]

Antoninus Pius
本名:ティトゥス・アウレリウス・フルウィウス・ボイオニウス・アリウス・アントニヌス
在位:138 - 161

86年9月19日に元老院議員の家系に生まれる。ラテン語ギリシア語に通じ、財務官や執政官、属州総督としてキャリアを積んでいった。136年、その力量が皇帝ハドリアヌスの目に留まったことで後継者に指名され、138年にハドリアヌスが死去すると定位を継承した。この際、暴君として恐れられていたハドリアヌスの神格化に尽力したことから「Pius(慈悲深い)」の渾名がつけられた。アントニヌスの治世下は大きな反乱や外患もなく、ローマ帝国の歴史を通して最も平和な時代となった。また、道路網の拡充や港湾の整備などインフラ政策に力を入れ、経済の発展を促進した。161年3月7日チーズの食べ過ぎで消化不良を起こして死亡した。享年74。養子のマルクス・アウレリウスが後を継いだ。

マルクス・アウレリウス・アントニヌス[編集]

Marcus Aurelius
在位:161 - 180

121年4月26日ローマで生まれる。少年時代からストア派哲学に傾倒し、有力な貴族の家系でありながら常に質素な生活を送っていた。皇帝ハドリアヌスはマルクスを気に入り、彼を帝位継承者アントニヌスの養子にさせた。161年、養父アントニヌス・ピウス帝の死去により義弟ルキウス・ウェルスと共同皇帝の座に着いた。マルクスは主に内政面を担当し、アントニヌス病と呼ばれる疫病が流行した際には衛生環境の改善や医療体制の強化に尽力した。また、奴隷の待遇向上や裁判所の公平性確保のための法整備も実施し、ローマ法の基礎を完成させた。他方、169年にルキウスが死去して以降は北方のゲルマン人との戦争に忙殺され、180年3月17日にウィンドポナ(現ウィーン)で死去した。享年58。彼は皇帝の座にありながら、自ら「自省録」を著すなど哲学を重んじたため「哲人皇帝」と呼ばれた。しかし、暗愚な実子のコンモドゥスを後継者にしたことで五賢帝時代は終わりを告げ、ローマが再び混乱の渦に巻き込まれる遠因をつくった。

ルキウス・ウェルス[編集]

Lucius Verus
本名:ルキウス・ケイオニウス・コンモドゥス・ウェルス
在位:161 - 169

130年12月15日に生まれる。皇帝アントニヌス・ピウスの養子に選ばれ、161年に義兄マルクス・アウレリウス・アントニヌスとローマ共同皇帝となった。ルキウスは主に軍事面を担当し、パルティアやゲルマニアへ遠征を行った。「哲人皇帝」と呼ばれたマルクスとは対照的に贅沢好きな性格で陣中でも遊興に耽っていたという。169年1月23日食中毒で死去。享年38。

コンモドゥス[編集]

Commodus
本名:ルキウス・アエリウス・アウレリウス・コンモドゥス
在位:180 - 192

161年8月31日に生まれる。父はマルクス・アウレリウス・アントニヌス。幼い頃のコンモドゥスは武勇に秀で美しい少年だったため、マルクスは養子縁組の伝統を止めて彼を後継者に据えることを決めた。180年、父が死去したことで帝位を継いだ。当初は食料問題の解決など一定の成果を出したが、次第に暗君化。自身をヘラクレスの化身と称して神格化を試みたほか、剣闘士としての活動に精を出して政務を疎かにし、奸臣を登用して粛清を繰り返した。192年12月31日、風呂上がりに侍女に毒入りワインを飲ませられ、弱ったところを近衛隊長らに絞殺された。享年31。死後元老院によって彼の彫像は徹底的に破壊された。ローマ市長官のペルティナクスが新たな皇帝に即位した。

関連項目[編集]