カノッサの屈辱

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カノッサの屈辱(カノッサのくつじょく、イタリア語: Umiliazione di Canossa, ドイツ語: Gang nach Canossa, 英語: Walk to Canossa)は、1077年神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が、ローマ教皇グレゴリウス7世に対し、破門の解除を求めて北イタリアカノッサ城で雪の中、ひざまずいて許しを請うた出来事を指す。これは叙任権闘争の頂点の一つとして知られ、中世ヨーロッパにおける教皇権の絶頂と皇帝権の一時的な失墜を象徴する歴史的な事件である。

背景[編集]

11世紀後半、西ヨーロッパでは聖職者叙任権を巡る皇帝教皇の対立が深刻化していた。これは叙任権闘争と呼ばれ、聖職者を任命する権利が世俗権力である皇帝にあるのか、それとも教会最高権力者である教皇にあるのかという、教会国家権力闘争であった。

当時のローマ教皇であったグレゴリウス7世は、教会改革を強力に推進し、聖職売買の禁止や聖職者の妻帯禁止(独身制の強化)などを主張した。特に彼は、聖職者叙任権教皇が独占すべきであると考え、皇帝による司教修道院長の任命(叙任)を厳しく批判した。

一方、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は、神聖ローマ帝国における帝国教会政策聖職者を皇帝の支配下に置くことで、封建領主に対する皇帝の権力を強化する政策)を維持しようとした。帝国内の有力な司教大司教は、皇帝の重要な支持基盤であり、彼ら皇帝が任命することは、帝国の統治上不可欠であった。

こうした背景の中、1075年グレゴリウス7世が「教皇訓令」(ラテン語: Dictatus Papae)を発表し、教皇普遍的権力皇帝に対する優位性を明文化したことで、両者の対立は頂点に達した。この中で教皇は、「教皇には皇帝廃位する権利がある」と主張した。

経緯[編集]

教皇訓令の発表後、ハインリヒ4世はこれに反発し、1076年ヴォルムス帝国議会を招集してグレゴリウス7世廃位を宣言した。これに対し、グレゴリウス7世ハインリヒ4世破門するとともに、臣下忠誠の義務を解除した。

中世ヨーロッパにおいて、教皇による破門は極めて重い意味を持っていた。破門された者は、キリスト教社会からの追放を意味し、に対する臣下忠誠の義務も無効となるため、ハインリヒ4世帝国内の諸侯への服従を拒否する動きを見せた。特にザクセン諸侯は、以前から皇帝に対する反乱の機会をうかがっており、この破門を好機と捉えた。

追い詰められたハインリヒ4世は、破門を解除してもらうべく、グレゴリウス7世が滞在していた北イタリアカノッサ城へ向かった。この城は、教皇の強力な支持者であったトスカーナ女伯マティルダ・ディ・カノッサの居城であった。

1077年1月25日から1月27日にかけての3日間、ハインリヒ4世は雪が降る中、修道士の粗末な服をまとい、裸足で城門の外に立ち、教皇に許しを請い続けたとされる。グレゴリウス7世は当初、ハインリヒ4世をすぐに許すことに抵抗したが、マティルダ女伯クリュニー修道院院長であったフーゴーなどの取りなしもあり、ついに1月28日ハインリヒ4世破門を解除した。

影響[編集]

カノッサの屈辱は、叙任権闘争において教皇権皇帝権に対して一時的に優位に立ったことを象徴する出来事として記憶されている。しかし、これは叙任権闘争の終結を意味するものではなく、その後も両者の対立は続いた。ハインリヒ4世破門解除後、帝国内の反皇帝勢力を鎮圧し、再び教皇と対立するようになった。最終的には、ハインリヒ4世グレゴリウス7世ローマから追放し、別の教皇を擁立するまでに至った。

叙任権闘争は、1122年ヴォルムス協約によって一応の決着を見た。この協約では、聖職者精神的権限指輪と牧杖)は教皇が授与し、世俗的権限領地など)は皇帝が授与するという、妥協的な合意がなされた。

豆知識[編集]

  • 「カノッサの屈辱」という言葉は、現代日本語においても、強い相手に対して屈服し、謝罪することを意味する比喩表現として使われることがある。
  • カノッサ城は現在、イタリアエミリア=ロマーニャ州に残っており、その遺跡を見学することができる。

関連項目[編集]

参考文献[編集]