ハインリヒ4世

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ハインリヒ4世ドイツ語: Heinrich IV., 1050年11月11日 - 1106年8月7日)は、ザーリアー朝の第3代神聖ローマ皇帝(在位:1084年4月13日 - 1105年12月31日)。ドイツ王(在位:1056年10月5日 - 1105年12月31日)としては第4代にあたる。彼の治世は、叙任権闘争として知られるローマ教皇との激しい対立が特徴的である。

生涯[編集]

幼少期と摂政時代[編集]

ハインリヒ4世は、1050年皇帝ハインリヒ3世と皇后アグネス・フォン・ポワトゥーの間に生まれた。1056年に父帝が崩御すると、わずか6歳でドイツ王に即位する。幼少期は母アグネスが摂政を務めたが、諸侯の権力闘争の煽りを受け、不安定な統治が続いた。特に、ケルン大司教アンノ2世ブレーメン大司教アーダルベルトといった有力聖職者が摂政の座を争い、幼いハインリヒの教育や政治的立場に大きな影響を与えた。

親政の開始と聖職者叙任権を巡る対立[編集]

1065年に成人を宣言したハインリヒは、親政を開始する。彼は、弱体化した王権の回復を目指し、特にザクセン地方の諸侯に対して強い態度で臨んだ。しかし、この政策は諸侯の反発を招き、国内の不安定要素となった。

彼の治世における最大の転機は、ローマ教皇グレゴリウス7世との叙任権闘争であった。当時、司教修道院長の任命権(叙任権)は、世俗の君主と教皇の間で争われていた。ハインリヒは、自らの権威を背景に聖職者を任命しようとしたが、グレゴリウス7世はこれをシモニア(聖職売買)とみなし、教会改革の一環として聖職者の叙任権を教皇に集中させようとした。

カノッサの屈辱[編集]

1075年にグレゴリウス7世が教皇訓令を発し、聖職者叙任権を教皇のみが有すると宣言すると、ハインリヒはこれを自らの権限に対する挑戦と見なし、1076年ヴォルムスの帝国会議においてグレゴリウス7世の廃位を宣言した。これに対し、グレゴリウス7世はハインリヒを破門し、ドイツ諸侯にハインリヒへの服従を禁じた。

破門によって立場が危うくなったハインリヒは、1077年1月、雪深いアルプス山脈を越え、グレゴリウス7世が滞在していたカノッサ城を訪れ、教皇に赦しを請うた。3日間のの中での贖罪の後、グレゴリウス7世はハインリヒの破門を解除した。この出来事は「カノッサの屈辱」として知られ、教皇権の絶頂期を示す象徴的な出来事となった。

その後の叙任権闘争と皇帝戴冠[編集]

「カノッサの屈辱」後も、叙任権闘争は続いた。ハインリヒは、グレゴリウス7世に対抗するため、対立教皇クレメンス3世を擁立し、ローマへの遠征を繰り返した。1084年、ハインリヒはローマを占領し、クレメンス3世によって聖ペテロ大聖堂神聖ローマ皇帝として戴冠された。

しかし、教皇派の勢力も根強く、特に南ドイツの諸侯やイタリア諸都市では反ハインリヒの動きが活発であった。グレゴリウス7世はノルマン人の支援を得て、ローマを一時的に奪回したが、最終的にはサレルノで客死した。

晩年と息子の反乱[編集]

叙任権闘争は、グレゴリウス7世の死後も形を変えて継続された。ハインリヒは、国内の反抗的な諸侯や教皇派との争いに明け暮れた。彼の晩年には、長男のコンラート(後にイタリア王)が、そして次男のハインリヒ(後のハインリヒ5世)が反乱を起こした。特にハインリヒ5世の反乱は、ハインリヒ4世を決定的に追い詰めた。

1105年、ハインリヒ5世は父を捕らえ、廃位を強制した。ハインリヒ4世はその後も抵抗を試みたが、1106年8月7日リエージュで失意のうちに死去した。彼の遺体は当初、破門されたままだったため、聖別されていない土地に埋葬されたが、後に破門が解除され、シュパイアー大聖堂に改葬された。

評価[編集]

ハインリヒ4世の治世は、神聖ローマ帝国における世俗権力教会権力の対立が最も激化した時代として記憶されている。彼は、王権の維持と強化を目指し、困難な状況の中で闘い続けた。しかし、彼の強硬な姿勢は、結果的に諸侯の自立を促し、帝国の一体性を損なう結果となった側面も指摘される。

一方で、彼は帝国の統一を維持しようと努力し、都市の発展を奨励するなど、後世に影響を与える政策も行った。彼の生涯は、中世ヨーロッパの政治的・宗教的状況を理解する上で不可欠な人物として位置づけられている。

家族[編集]

豆知識[編集]

  • ハインリヒ4世は、皇帝でありながら「カノッサの屈辱」という形で教皇に屈した人物として非常に有名です。しかし、この屈辱的な出来事が、必ずしも彼の権威の完全な失墜を意味するものではなかったという見方もあります。彼はその後も教皇との闘いを継続し、皇帝として戴冠することに成功しています。
  • 彼の人生は、オペラや文学作品の題材となることもあります。特に、叙任権闘争のドラマティックな展開は、多くの人々の関心を引きつけました。
  • 最初の妃ベルタを嫌い、離婚しようとしたが失敗した。親が決めた結婚だったので反発していたらしい。

関連項目[編集]

参考文献[編集]