アレクサンドル1世
アレクサンドル1世(露:Александр I)とは、ロマノフ朝・ロシア帝国の10代目皇帝。
生涯[編集]
前半生[編集]
1777年12月23日、皇太子 パーヴェルと皇太子妃マリア・フョードロヴナの第一皇子として生まれる。幼少期は母ではなく祖母エカチェリーナ2世によって育てられ、スイス出身の共和主義者が家庭教師を務めた。1796年に父が即位してパーヴェル1世となるが、貴族の反感を買ったことで1801年に軍人達によって暗殺された。アレクサンドルがこの事件にどれほど関与していたのかは不明であるが、計画を知らされており黙認していた可能性が高いと言われる。こうして25歳で帝位についたアレクサンドル1世は早速自由主義的改革に着手したが、保守的な貴族からの猛反対により頓挫した。
祖国戦争(ナポレオン戦争)[編集]
1804年末にナポレオン・ボナパルトがフランス皇帝に即位しナポレオン1世となった。ヨーロッパにおける「皇帝」はローマ帝国時代からの慣わしでロシア(東)と神聖ローマ帝国(西)の2人のみ名乗ることが暗黙の了解だったため、面子を潰されたアレクサンドル1世はイギリス・オーストリアと第3回対仏大同盟を結成した。しかし1805年にアウステルリッツの戦いで大敗し、翌年のティルジット条約でフランスと講和を結び、大陸封鎖令への参加を強いられた。しかし、イギリスに大量の穀物を輸出していたロシア経済は大打撃を受け、まもなく秘密裏に対英貿易を再開した。これを知ったナポレオンは憤慨し、1812年6月24日にロシアへの軍事遠征を開始した。ロシア軍は焦土作戦を展開して不要な戦闘を避け、フランス軍をじわじわと疲弊させた。9月7日、モスクワ近郊のボロジノの戦いでナポレオンとクトゥーゾフ将軍率いるロシア軍が激突。フランス軍はなんとか勝利を収めたものの、大損害を被った。9月14日にナポレオンはモスクワに入城したが、その日の夜に大火が起こった。フランス軍は十分な食料を得られず、冬が迫っているため退却を決意。冬将軍とロシア軍の猛追、疫病に流行により遠征軍は壊滅した。その後ナポレオンは1814年のライプツィヒの戦いで敗れ第一帝政は崩壊し、エルバ島に流刑となった。
ウィーン体制[編集]
1814年にナポレオン戦争の事後処理であるウィーン会議が開催された。ナポレオン敗北の原因を作ったロシアはこの会議の主導権を握り、キリスト教に友愛精神に基づき、ヨーロッパの専制君主制保持を目的とした神聖同盟及び四カ国同盟(後に五カ国同盟)の結成を提唱した。この頃のアレクサンドル1世は生年時代の自由主義の考えを捨て去り、反動的な思想の持ち主に様変わりしていた。ウィーン体制下においてロシアは他の国で革命の動きが起きると兵を送り込んで鎮圧していたため、「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれるようになった。1825年11月19日に熱病で崩御。享年47。彼には男子がいなかったため、弟のニコライ1世が後を継いだ。
人物[編集]
- 人類愛・友情に厚い面と狡猾で偽善的な面の両方を持ち合わせていた。
- 金髪の美形。ナポレオン1世もアレクサンドル1世との会見後、好印象を受けたと述べている。